「停念堂閑記」142

《停念堂閑記》142

 

「停念堂寄席」」79 

 

「念には念を」

 

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。厚く御礼申し上げます。 

せっかくお越し下さいましたが、ここでの話は、相も変わらぬ、毎度の代わり映えのしない、間抜けな話で御座います。

いくぶん具体的に申しますと、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない、要するに間抜けな話で御座います。

深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

あるお方が申しておられましたよ。ヒマ潰しにすることは、須らくおよそアホくさいものだと。まさにその通りで御座いますな。間違いおまへん。

ところが、このアホくさいと思われる中から、凄い事が産まれる場合があるんだってさ。すごくタマにね。

しかし、アホくさい事は、紛れもなく殆どアホくさい事なんだそうですだよ。

間違い御座いません。《停念堂閑記》がそれを証明している代表的なものですだ。

 

定年後の御同輩、きっと、持て余しているのでは。

毎日のヒマを。

お互いに、持て余しているヒマを、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ならないのですよ。

しかしですね。これは、これで、なかなか。ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

その通り。至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

 

と言うことで、本日も張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

 

打倒、閑、暇、ひま、ヒマーッ!

A A O!  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

情けねー! トホホ。

 

 

毎度バカバカしい話で、しばしのヒマ潰しにお付き合い下さいませ。

それでは、早い話が、何時もの行き当たりばったりの話と、何ら変わりはないですか、ってですか。

そうなのですよ。その通りなのですよ。何時も通りのバカバカしい話で、ヒマ潰しをしようと言う魂胆なのですよ。

それでですね。基本的には、何時も通りのバカバカしい話をと言う訳ですが、現実的なには、何か具体的な話題を設定しないと、進め難いのですよ。

 

と言う事で、本日の話題は、「念」と言う事にしたいのですよ。

如何なもので御座いましょうか。

何だか、訳の分からない話題でしょ。

そーなんですよ。こっちだって、わかってやる話では御座いませんよ。

兎に角、何かやらなくては、と言う状況で、捻くり出したのが「念」と言う事なのですよ。

どうなるかは、やってみなくては、分かりません。成り行き次第と言う事ですわ。

分かっている事は、何だか訳の分からない話でも、ヒマ潰しにはなる、と言う事なのですよ。

ヒマ潰しにさえなれば、目的達成と言う事ですから、日比憐休的には、納得と言う事なのですが、お付き合い下さる方の中には、ご迷惑と感じられる可能性があるのですが、その点をご理解の上でですね、お付き合い願えれば、と思いますので、よろしくお願いしますね。

なんて、グダクダ書いて、時間潰しをね、してる訳なのですよ。姑息でしょー。これが、ヒマ潰しのコツなのですよ。

書いているこちらはヒマ潰しになるのですが、これに付き合って下さっているお方もまた、実はヒマ潰しになっているので、何と、一挙両得なのですよ。めでたし、めでたし。

と言いながらも、面白さは、何にも御座いませんな。と言う事は、こんな事は、むしろ書かない方が良かった、と言える訳ですよ。

と言う事に気が付いてしまったら、これは、上に書いた事は、無かった事にして頂きたいと思う次第なのですよ。

たとえ、失言しちゃっても、前言取り消し、ってんで、責任は取らず、シャーシャーとしていられる日本ですからね。

どうなっちゃってるのですかね。

と言う事で、こちらだって、この際、サッパリと忘れていただき、頭をカラッポにしまして、本題の「念」に取り掛かりたいと思います。

 

どうして、「念」なのだ、ってですか。

それが、ハッキリとしていないのですよ。

まー、なんとなくなので御座います。

頼りないでしょー。

しかし、なんだか、ゴールを設定せず、目先の処理に手こずっている日本政府に似ちゃったりしては、面白く御座いませんからね。

一応はゴールを設定して進まなくてはね。

国民も分かりづらいでしょ。

だから、物事を実施するに当たっては、ちゃんとゴールを設定しておかなくては、進みようがないでしょ。

ゴールを設定せず、税金を投入し続けている政府は、ある意味凄いな、所詮、自分のお金では無いから、その場凌ぎで良いと言う事かな。

オリパラの競技も、ゴールを設定せずにやったら、どうなりますかね。

以前、選手には、ゴール地点を知らせず、とりあえず走らせておいて、途中で、実はゴールは、ココでした。と言う事で、順位を決める競技を見たことがありましたよ。しかし、これは、予めゴールは設定してあるのですよ。選手に知らせないだけでね。

それにしても、政府はどっち向いて走っているのかねー。分かり難いね。

「停念堂閑記」は、そんなことはしませんよ。ちゃんと、落ちは決めてあるのですだよ。念を入れてね。大した事は、御座いませんがね。

 

と言う事で、参りますよ。

 

「ご隠居 居るかい ?」

『これは、久しぶりですねー。六軒店の六さん。』

「いましたかー。あー良かった。御隠居。」

『どうしました。六さん。息をきらせて。』

「イヤー、御隠居が留守だったら、どーしょうかと、心配してたのですよ。居て良かったー。」

『えー、そりゃーもー、「新コロ」の自粛で、何処にも出かけず、ずーっと、籠っておりましたよ。それがどーかしましたか。』

「御隠居、節分はどーでした。無事乗り越えやしたか。」

『節分は、乗り越えるものですか ?  豆撒きをするものでしょー。』

「普通は、そーですだよ。それが、アッシの所は、そーでは無かっただよ。御隠居。」

『と言いますと、豆撒きはしなかったのですか。』

「ヘエ、それがパチンコ玉撒きでして。」

『エッ、パチンコ玉撒きですか。あまり聞いたことがございませんねー。珍しいことをしてますねー。』

「ヘエ、アッシも、今回が初めてでして。」

『どうして、パチンコ玉撒きなぞしたのですか。』

「聞いて下せーよ、御隠居。」

『ハイハイ、聞きますよ、聞きますよ。なにせ珍しいことですからね。どうぞ、おあがり下さい。』

 

「聞いて下せー、御隠居。

実は、節分の夕方、いっぺー引っ掛けやしてね、いい調子で、家に戻ったところ、なんと玄関にツノを生やし小さな枡を持った赤鬼が、仁王立ちになってたんでやすよ。

なんだこりゃ、と思いきや、もう、間髪入れずに、パチンコ玉が飛んできましただよ。

『突然、赤鬼が、パチンコ玉をですか。六さん。』

「実は、この間、パチンコへ行きやしてね。玉を少し持ち帰って、ちょうど、テーブルに出ていた小枡にコロコロっと入れておいたのですだよ。これを、ころっと忘れてたんですだよ。

それで、節分の夕方、ほろ酔い加減で帰宅したところ、赤鬼が、この「新コロ」の最中、パチンコに行っていたのかー、ってんでね。それで、いきなりパチンコ玉が、雨あられ、と言うことでして、そりゃー、もう、ダイズ豆と違って、痛いのなんのって、タマらず、逃げ出した、という次第なのですだよ。」

『なーるほど。それで、赤鬼に、パチンコ玉で、六は外ー、となったのですか。納得です。』

「御隠居、なに納得してるだよ。それどころでは、ねーですだよ。節分が終わっても、まだ、寒いのに、家に戻れねーだよ。それで、どう、言い訳すれば良いものかと、御隠居に教えてもらうベーと思いやしてね。どーか、おねげーしやすだよ。」

『そんなこと、お願いされても、私だって、節分が過ぎても、居座ったる赤鬼は苦手ですよ。』

「そこをなんとかと、おねげーしているだよ。」

『と言っても、まずは、飛んでくるパチンコ玉を防ぐ方法を考えなくてはなりませんなー。』

ソーダ、カサはどうだべ。カサで玉よけ、っうーのが、良いのではねーですか。御隠居。」

『そーですね。打ち止めにさせなくてはなりませんから、念のために、予備のカサも持っていった方が良いですね。もう2、3本。念には念を入れましてね。』

 

「ヌッ。念のため、念には念を ? ? ?

御隠居、よく聞きやすが、念には念を入れて、と言う、「念」とはなんのことですだ。それを教えて貰わねーと、念を入れろ、と言われても、何をどう入れれば、パチンコ玉を防げるのかわからねーだよ。」

『突然、「念」に乗り換えるのですか。六さん。」

「そりゃーもう、すぐに乗り換えますだ。なんら問題ねーですら。アッシは、思いついたら、次の停車駅で、すぐに、乗り換える質でやんすから。」

『電車の乗り換えは、関係ないでしょー。

それでは、念のために、こちらから、片つけましょうか。』

「念入りに、おねげーしますだ。御隠居。」

『それでは、念を入れて、始めましょうか。

日常生活においても、しょっちゅう「念」に関わる表現が飛び交ってますなー。人々にとって、「念」に関わる表現は、馴染み深いですなー。

ところで、「念」とは、どのような意味を持っているのか、と言う事について、改めて問われると、中々、簡単に答えることが、難しいところが御座いますな。』

「御隠居、なるべく簡単に、短めにおねげーしますだよ。長引くと、初めに聞いた事が、次々に忘れちゃいますので、切りがなくなるだよ。へー、手短にね。頼みますだよ。」

『そー簡単には、参りませんよ。手っ取り早く済ませちゃったら、ヒマ潰しにならないではないですか。思いつきバッタリで、ダラダラ引っ張らなくては、基本から外れてしまいますから、この点を忘れられては、困りますよ。』

「御隠居、ダラダラ引っ張るのなら、とにかく、面白くやって下せーよ。面白くないと、アッシは、寝ちゃいう癖があるのですだよ。小学生の頃、授業は半分イタズラして、半分は寝てましたからね。これでも、6年間で、無事卒業できただよ。

だから、時々、居眠りするけど、その時は、御隠居、話が面白くねー、と言うサインですだから。しっかり、頼みますだよ。」

『いきなり寝ないで下さいよ。頼みますよ。

それでは、参りますよ。

「念う」と「う」の送り仮名をつけると、これは「おもう」と読むそうですな。

普通一般的に、多くの場合は、「おもう」は「思う」の字を当てますなー。

「念う」はめったに使いませんな。』

「御隠居、どこが違うのですだ。」

『まだ寝てませんね。その調子ですよ。

どこが違うのでしょうかねー。六さんだったら、どこが違うと思いますか。』

「御隠居、わかってねーですな。アッシは、この手の事は、思わねー質なの。頼みますよ。御隠居。本当に。」

『これは、失礼おば致しました。そーでしたね。六さんは。思わない質でしたね。』

「御隠居、そんな、ダメ押しをしなくとも、いーだから、トットとやって下せーよ。」

『私にだって、「念う」と「思う」の違いなんて、良くは存じませんよ。大体は、その方の好みでは御座いませんか。私の独偏(独断と偏見の略語で使います。)では、「念う」を好む方は、何か、これに拘(こだわ)りをお持ちの方では御座いませんかね。どのような事情かは、色々でしょうがね。どちらかと申しますと、「念う」の方が、幾分堅い感じがしますが、どうでしょうね。』

「御隠居、どうでしょう、なんてやられても、アッシには、どうにもなりませんだよ。

アッシは、大体において、通常は、文字と関係の薄い存在ですだから。そんな事言われると、モジモジするばかりですだよ。」

『六さん。ここでダジャレで来ましたか。それでは、こちらも何か考えませんとね。』

「御隠居、考えなくて結構ですだよ。話が長引くから。」

『そうですか。では、ダジャレは後回しにしまして、「念う」も「思う」も、基本的には、心で感じた、気持ちに関する表現なのでしょうね。

どうも、「念う」の方が、重みと言いますか、熱心さと言いますか、より強い気持ちを表す時に用いられるような気がしますなー。独偏ですが。

「思い」の方は、あまり深くではなく、軽いその時々の気持ちを表す時に、使われる事が多いようですなー。独偏ですが。

それと、蛇足ながら、「思う」と同じ使い方をされるのに「考える」と言う表現が御座いますなー。

この違いは、と言いますと、「思う」の方は、簡単に言ってしまうと、あまり熟慮せずに、感じた事を表現する時に、すなわち、感覚的、感情的、情緒的な表現として、使われる場合が多いようですなー。

一方、「考える」の方は、色々と証明が伴ったり、理由の説明が伴ったりする場合に用いられる事が多いようですなー。すなわち、「考える」と言う方が、論理的、理性的な場合の表現のようですなー。』

 

「あのー、御隠居、大分調子が出てきたようでやんすが、そのような方向へ行くと、オラー、トローンとしてくるだよ。まちげーなく、寝てしまうだよ。オラの時間割には、休憩時間とイタズラ時間と居眠り時間しかねーだよ。このままだと、まちげーなく居眠り時間に、突入してしまうだよ。

御隠居、お一人で、どーぞ、ごゆっくり。お休みなせー。」

『チョツト、チョツト、チョット。六さん。それはないでしょー。「念」がどうとかと、言い出したのは、あなたでは御座いませんか。本当に、困った人ですね。

でも、こんな時の奥の手は、チャンと心得ているのですよ。

行きますよ。

六さん、鰻重が届きましたよ!』

「御隠居、鰻重でやんすか。肝吸い付きでやすか?」

『ホラホラ、一発でしょ。六さんは、鰻重に目がありませんからね。』

 

「ヌッ。御隠居、鰻には、目がねーのですかえ。アッシの見た限りでは、鰻には、目があっただよ。

中には、八つも目のあるやつもおりましたぜー。八目鰻。

あれは、物が皆んな八つに見えてるんですかねー。

一つの鰻重も、八個に見えてるんですかねー。

と言うことは、オラは六だから、8倍すると48人に見えてるのかねー。御隠居。すげーなー!」

『チョット、チョット、六さん。

あなた一人で何を盛り上がっているのです。

鰻重の話になると、途端に、目がパッチリしますねー。

その論理で行きますと、千鳥は一羽でも、1000羽と言う事になりますよ。』

「そー、きやしたか。御隠居も、結構飛ばしますなー。

1枚でも、センべイ、1個でも、マンジュウですだよ。」

『来ましたね、来ましたね。一番初歩的なので。

それを受けて、ヒネリますよ。

センジュのマンションでどうです。六さん。』

「御隠居、それでは、あまりシャキッとしてませんぜ。

オットット、あぶねー、あぶねー。危うく、ヒマ潰しに引き込まれるところだったぜ。油断ならねーな。

ダジャレは一先ず、おきゃしょー。

「念」をやって下せー、「念」を。この際、念を入れなくていいから、手短にね。御隠居。」

『用心深くなりましたね。六さん。

では、続きにしますが、「念う」は、動詞の形ですが、これが「念」一字となると、どうでしょうか。

意味としては、

1 思い 気持ち

2 配慮 注意 心配り

3 希望 希み

4 一心に思いつめること

5 決心 決断

そのほかにも、色々な意味合いで使われているようですな。

すなわち、使う人や使う状況によって、色々な意味を込めて使う、結構厄介な語のようですな。

だから、均(なら)して、このようです、と説明し難い特徴があるようですね。このような謂わば曖昧さを持っているので、「停念堂閑記」の題材となるのですよ。ヒマ潰しに、もってこいなのですよ。ですよね。六さん。』

「ですよね、なんて、アッシは、また、居眠り時間に入りますだよ。」

 

『そうだ、スッカリ、忘れいるようですが、問題は、六さんところのバチンコ玉防御対策が、そもそもの問題なのですよ。

結局は、こちらをどうするかが、最終的な問題ですから。どうします。六さん。』

「だから、とりあえずは、カサで防御と言うところまで行った時に、御隠居が、念には念を入れて、なんて言い出すから、「念」に行ってしまったのですだよ。」

『そうですよ。それで、「念」には「念」を入れて、と言う時の「念」は、「配慮 注意 心配り」と言った意味合いで、細心の注意を払わなくては、ならないと言った意味になるようですよ。と言うところまで来たのですよ。

そうしたら、・・・・』

 

[今日は。ごめんなさいよ。御隠居さん。]

 

『ハイハイ、少々お待ちを。

 

オッ、これはこれは、お珍しい。』

[六軒店の六の家内でございます。

ひょっとして、うちの宿六が、お邪魔しておりませんでしょうか。]

『宿をつけて良いかどうかは別としまして、六さんならおいでですよ。およびしますので、少々お待ち下さいませ。

 

参ったねー、どうも。まだ、作戦が出来上がっていないうちに。

 

六さん、六さん。先手を打たれてしまいましたよ。

奥さまが、お出でですよ。』

「ヒェーッ、来やがったか。まだ、怒っている様子ですかい。御隠居。」

『それは、もー。節分は、とっくに終わったと言うのに、まだ、赤鬼のお面をつけてますよ。」』

 

「御隠居、それは地顔ですだよ。」

 

『エッ、スッピンですか。

それでは、六さん、カサ、カサ、カサを用意しなくては。1本では、危ないですよ。2、3本持って行った方が良いですよ。』

 

「御隠居、念には念を入れてですかえ。」

 

どうも、お疲れさまで御座いました。

またのお越しを、お待ち申しあげます。

 

お後がよろしいようで。