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《停念堂閑記》155

 

「停念堂寄席」」92

  

 

嘘吐き」

 

 

ようこそ、「停念堂閑記」へ。よくお越し下さいました。厚く御礼申し上げます。 

早速、恐縮で御座いますが、ここでの話は、相も変わらぬ、毎度毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリの、底、奥行きの浅い、要するにマヌケな話で御座います。

しかし、取り柄もございますよ。決して深刻にならないところです。夜、眠れなくなったりしませんからね。

すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

ただし、生真面目 ? なところが、唯一つの救いです。

ホンマかいな。 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。この目的さえ、しっかりと認識しておけば、万事OKで御座いますよ。

あるお方が申しておられましたよ。

ヒマ潰しにやることは、須(すべか)らくアホくさいものだと。

毎度毎度の《停念堂閑記》がそれを証明しておりますからね。 

さて、定年後の御同輩、きっと、持て余しているのでは。

毎日のヒマを。

お互いに、持て余しているヒマを、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ならないのですよ。これがリタイア後の最大の課題ですからね。

しかしですね。これは、これで、なかなか。ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

その通り。至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。 

と言うことで、本日も張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

 

打倒! ヒマーッ!

A A O!  エイエイ オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声でんなー。

情けねー! トホホ。

 

さて、今回は、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う基本を踏まえて、嘘吐きの話をしようと思うのですよ。

と聞いただけで、もう、今回はここまで。読むの止(よ)しだ。と思ったでしょう。

そうです、そのようにお思いになられた方は、大正解。これ以上こんなのと付き合っても、碌(ろく)なことは御座いませんよ。

これは本当ですよ。その場凌ぎの政治家先生の出任せとは、根本的に違いますから。

今回はここまで。読むの止(よ)しだ。と思われたお方は、直ちにパソコンの電源をお切りになって、スマホに切り替えた方がよう御座いますよ。

あのー、スマホでも見れますから。本当ですよ。嘘は申しません。

それじゃー意味ねーだろうだって。その通り。これは、無意味です。私は、嘘は申しておりません。

とは言いましても、私だって、たまには、嘘を吐くことは御座いますよ。たまーにですよ。たまーに。

せいぜい、1日に、二、三回、いや四、五回くらいなものですかね。まー、常識の範囲で御座いますですよ。

なんてね。これが真っ赤な嘘なんですよ。

だいたい、嘘を吐く為には、そもそも何方か吐く相手が居なくては成立しないのですよ。ところが、私ゃー何方とも逢わない日が殆どで、嘘を吐きたくても、吐く相手が居ない日常なのですよ。

したがって、元に戻りますが、私ゃー嘘を吐きません。これは、嘘では御座いませんよ。ホンマ。嘘を吐ける環境にないのですよ。

全く、情けねー状況なのですよ。

しかし、嘘を吐くと言う事に関しては、いっぱいネタが有りますよ。有り余って、どこから取っ掛かれば良いかに、迷っちゃうくらいですよ。

ただね。隣のオヤジが、奥さんに仕事へ行くと嘘を吐いて、競馬に行ってたのよ。なんて言う嘘話は、ゴメンですよ。面白くないのですから。こんなことは、よくある事だし、当事者以外の者にとっては、こんな話を聞いたって、あーそうかいで終わってしまう、何とも面白味の無い、つまらねーえ話なんですよ。

こんなのだったら、この間、ウチの飼い犬に蚤がついちゃったので、とってやったところ、この蚤がなんと屁をこいただよ。これがくせーのなんのって、と言ったすっとぼけた嘘話の方が、よほど面白いでしょ。

けんど、抑も、蚤と言う奴は、屁をこくものなのかねー。なんて下らない事を考えてはいけませんよ。蚤で止まらなくなっちまいますからね。蚊はどうかな。虻はどうだ。トンボは、蝶々は、蜂は、アリンコは、バッタは、・・・と止まらなくなっちまいますからね。

そうなった時には、カメムシに登場してもらわなくてはね。カメムシなら四の五の言わず、屁の塊みたいなものですからね。ただし、カメムシの匂いが屁のせいかどうかは、存じませんがね。

あっ、思い出した。屁の話をしている場合では御座いませんよ。今回は、嘘吐きの話が本題でした。嘘吐きの話しをすると言っておきながら、屁の話に終始してしまったら、それこそ嘘をついた事になっちまいますからね。危なく、嘘吐きになってしまうところでしたね。気をつけねば。

この頃は、もー直ぐに度忘れをしてしまうのですよ。ちょっと、面白いネタを思いつくと、それまで考えていた事を、ころっと忘れちゃうのですよ。本当に困っちゃうのですよ。これは、嘘では御座いませんよ。本当の話ですよ。気を付けなければね。あぶねー、あぶねー。

さて、前回は、岸田総理に向けて爆発物が投げつけた事件について取り上げました。総理はSPに守られて危険場所からいち早く避難され、大事に至らず、何よりでした。

ところがですね。ここに若干の失望があるのですよ。

と言うのはですね。総理は、常々、演説やインタビューの時などに、決まって「私は、国民の生命と財産を守る」と言う発言を連発されているのですよ。きっと、総理の政治信条なのでしょうね。大変頼もしく、立派な事ですね。

前々総理の安倍さんが、北朝鮮がロケットの発射実験をする言い出した時、決まって「私は、国民の生命と財産を守る」と発言されていたのを覚えております。次の菅総理は、あまりこの発言をされた記憶が御座いませんね。

これが、岸田現総理になって、復活したのですよ。時々この発言をなさる様になりましたね。

すなわち、この発言が、どう言う事になるかと言うと、わかり良く噛み砕いて言うと、総理は常日頃、「国民の生命は私が守る」と言っていたのですよ。ところが爆発物を投げつけられた時、そこに集まっていた群衆(国民)も生命の危険にさらされていたわけですよ。この群衆の生命はさて置いて、ご自分はサッサとSPに誘導されて、安全な所へ避難したのですよ。

あれーっ、国民の生命を守ってくれるのではなかったっけー。と言うことになっちゃうのですよ。

あのように、突然爆発物を投げつけられた場合、総理がSPに助けられて避難するのは、全く当たり前の事ですよね。誰だって、そうすると思いますよ。大事にならなくて本当によかったですね。だから、総理が避難した事を咎める人はいない、と思います。

ところが、視点を変えると、総理が常日頃おっしゃっておられた同氏の政治信条と思しきものと、現実の行動は、全く異なっていたと言う現象が発生してしまったのですよ。

今回のテーマから言えば、総理は常日頃平然と嘘をついていた、と言うことになるのですよ。

一般国民は、総理が「私は、国民の生命と財産を守る」とおっしゃられても、それを鵜呑みにしている人は、まず、めったにおられないと思われますし、守られたと言う実感を受けた経験をお持ちの方は、まず極めて稀少と思われるような気がしますよね。つまり、政治家先生お決まりのお題目程度にしか聞こえない、要するに、大事な事として記憶にも残らない程度のものの様に感じられますよね。

ところが、平生は、気にも止まらぬ事なのですが、これが、何かの折に、ヒョコッと思い出したりする事があるのですよ。

つくづく残念に思うのですよ。

爆発物を投げつけられて、総理がSPに誘導されて避難したあの引き際に、「爆発物だ。皆さん退避してください。」の一言があったらならばなー、と思うのですよ。

そうすれば、総理の「国民の生命は守る」と言う、常日頃の発言は、嘘では無かった。自身の危険を顧みず、国民の生命を案じた、それはそれは立派な政治家となれたのですよ。ところが、それが無かったために、単なるお題目、嘘ついてた、と言う事になってしまったのですよね。つくづく残念ですね。

はたまた、今度は、集まった税金に余裕が出たので、これを国民に返還する、と言い切ったのですよ。岸田総理。

本当ですか。また嘘では無いの、となるわけですよ。

ところが直ぐに、税務を担当している財務省が、そんな余っている税金は御座いません。国民に一度集めた税を返すとなれば、その原資は御座いません。返還すると言うのなら、そのための赤字国債でも発行しなくてはならない事情にありますよ。と来たもんですよ。

またもや、やっぱり嘘かよ、となってしまうのですよ。

抑も、集まった税金に余裕が発生したから、国民に返還する、と言う発想がおかしく御座いませんか。政府は連年予算が不足していると言って、赤字国債を発行し続けている事態では御座いませんか。積もり積もって、モー、どれ程の額になっているのかも、思い出せませんよ。

これも振り返ってみれば、1965(昭和40)年11月19日、戦後初の赤字国債発行が閣議決定されましたね。佐藤栄作内閣の時代でした。凄いですね。ノーベル平和賞を受賞されたお方の内閣で御座いますよ。この時に、赤字国債を発行して、歳出の一時凌ぎに踏み切った、と言う次第でしたね。初の東京オリンピック後の財政難の一時凌ぎに、赤字国債の発行と言う打ち出の小槌の使用を始めたのですね。

 その時、赤字国債は後世にツケを回すわ、孫子にツケを回すのは如何なものか、と言う意見がしきりでしたが、これは今回限りで、前例にしない、と言う様な政府の答弁がなされていた様な記憶が御座いますな。

ところが、今となっては、そんな事は何処吹く風、真っ赤な嘘。赤字国債の発行は、毎年当たり前。国会議員先生の中には、赤字国債による借金は、将来にわたっても、返却する必要はない、と言う様なことをシャーシャーと言ってのける者も現れ、選挙の前には、打ち出の小槌を振りかざしては、ガッポガッポと赤字国債を発行して、気前良げに大盤振る舞い、集票活動に専念するのが国会議員先生の常套手段となってますからね。と言ったら嘘でしょうか ?  嘘かどうかは、国会議員先生の常日頃の言動を見ていれば、おおよそは判断がつきますね。

現在、メディア、巷で専ら話題になっているのは、政治資金に関わる自民党各派閥の政治資金に関わる不正についてですね。要するに、政治資金を得た場合には、その決まりに従って、会計を明朗、透明にしておかなくてはならないところを、嘘を記載してごまかしていた事が明るみに出てしまった、と言う事ですな。これが、自民党の最も有力各派閥で行われていたと言うのですから、国民からすれば、国会議員の先生らは、揃って嘘吐きなんやろーな、と言う事にならざるを得ないのでは無いのかなー。と言う気がしてくるのですよ。

総理は、国会の答弁で、自分の派閥では指摘を受けたので、直ちに調査しが、問題は無かった、と堂々とされていましたね。

他の派閥については、まだ、どうなっているのか小生は確認しておりません。

たとえ不正な点が見つかったとしても、おそらく実態に沿って、正しく改めた、と言う程度の事で、幕引きとなるのでは無いのかと、懸念しております。特捜の方々、しっかり調べて下さいよ。

悪さをしても、訂正すれば、万事チャラ、無かった事になるのでしょうかね。

子供の頃、「御免で済めば、警察はいらねー。」なんて、よく言いましたよ。

国会議員先生のなさる事は、一皮剥けば、ひょっとして嘘ばかり、と疑われても仕方の無い事態なのでは ? と疑う向きが多いのでは、と想像するに難くありませんなー。

とにかく、国会議員先生方は、常に嘘とご一緒しておられるのでは無いか、と疑われる様な事態がままおありの様に見受けられはしませんか。お遍路さんは、一人で歩いても、弘法大師様と常に一緒、同行二人とか。国会議員先生のご同行相手は、はてはて・・・ ?

だから、この様な状態と見受けられる場合が多いので、国民による政治不信は、強まる一方なのでは無いでしょうか。

減税するとか、給付金を出すとか、耳触りの良い事、目先に人参をぶら下げられても、国民は、おいそれとは、食いつかない事態に陥っている様な気がしますね。

内閣及び与党の支持率の低下が、これを如実に示していると思われますね。

支持率の低いのは、国会議員先生に対する信頼度の低さなのが、明らかですね。どうしてと問われれば、嘘を吐くから、信用できないから、と言う人間性不信に尽きるのでは御座いませんかと、思いたくなるのですよ。

子供の頃に、よく「嘘は泥棒の始まり」と言う教訓にお目にかかりましたなー。悪さをして、親に見つかり、ごまかそうと嘘を吐くと、直ぐに見抜かれて「嘘は泥棒の始まり。ゴツーン!」と来るのが常でしたね。今では、ゴツーンはダメでしょうがね。

これが怒られる方の子供にとっては、言葉で注意されるより、ゴツーン一発の方が歓迎されていたりしましたな。言葉で、ネチネチと長い時間説教されるとと、子供にとっては、こっちの方がしんどいのですよ。それよりも、一瞬のゴツーン一発で釈放された方が、よほど良かったりしたものですよ。現在は、ゴツーンは理由を問わず全面禁止ですからね。今の子供は、否応なしにネチネチ注意、お説教に耐えなくてはなりませんよ。

ところで、どうして国会議員の先生は、この「嘘は泥棒の始まり」の教訓をコロッと忘れ去ってしまうのですかね。

世襲議員先生が多くいらっしゃいますが、ひょっとして世襲議員先生のご家庭では、この様な教訓的教育はご法度なのでしょうかね。

国会議員の先生のご家庭では、それはそれなりになかなか大変なところがお有りな事とお察し致しますがね。

国会議員のお父さんが、何かの不都合を起こして嘘をつき、メデァで色々と報道しきりの時、御家庭で、お父さんは嘘をついたの ? と我が子に問われたら、お母さんはどうしましょう。

お父さんは、お国のために一所懸命働いているのですよ、と諭した場合、お子さんは、ひょっとして「嘘を吐く事は、お国のためになる事」と了解してしまったらどうします。この子が成長して、二世議員となったらどうでしょうか。これはなかなか難儀な事態発生ですよ。どうします。

まー、上記は笑い話ですが、要するに嘘も方便と言いつつも、嘘はヤッパリいけませんなー。信用をなくしますから。

 

「嘘は泥棒の始まり!」と言う、今時、殆どの聴くことのなくなった教訓をもって、今回の結びと致します。

お疲れ様でした。

お付き合い、どうも有難うこざいました。

お後がよろしいで。