《停念堂閑記》158

《停念堂閑記》158

 

「停念堂寄席」」95

  

 

「何でこーなっちゃってるの!」

 

 

ようこそ、「停念堂閑記」へ。よくお越し下さいました。厚く御礼申し上げます。

よほどおヒマなのでしょうか。他に行く所が無いのですか ? 

失敬、失敬。とんでも御座いません。ご多忙の中を当サイトをお開き頂きまして、誠に有難う御座います。どうぞ、ごゆっくりと、ヒマ潰しをなさって下さいませ。 

早速、恐縮で御座いますが、ここでの話は、相も変わらぬ、毎度毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う、略して「アバク」の三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリの、底、奥行きのメッチャ浅い、要するにヌケ ? な話です。 すみません、マが抜けてしまいました。まさに、マヌケな話で御座います。と言う事で、あまり期待はしないで下さいね。

もとよりしていないですって。

あのーですね、日本には、忖度(相手の気持ちを考慮すること)と言う文化があるのですよ。麗しい文化ですよ。

ところが、現在は、忖度すると言うのが、いけない事の意味合いに感ずる方(かた)が多い様に見受けられますなー。おそらく、政治の場などにおいて、権力者に対する忖度が際立ち、弱者側に目を向けない場合が多く見られた所為(せい)ですかね。それで、一般的に忖度すること自体、歓迎されないことが、多くなった、と感ずるのは、独偏(独断と偏見の略語)ですかね。

ところが、若い方が、場の空気を読め、なんてよくおっしゃるのですよね。難しいね。世の中は。

しかし、日比憐休の話は、率直に言って、マヌケな話とは申せ、多少の取柄もございますよ。それは、決して深刻にならないところです。夜、眠れなくなったりしませんからね。

すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

ただし、生真面目な(?)ところが、唯一、トビッキリの取柄(?)なんですよ。

ホンマかいな。どこが、真面目なんや ?

たとえトンマなフザケタ話でも、真面目に取り組まなくてはいけませんよ。加トちゃんが申しておられましたが、彼の代表的なキャグ「ヒックション!」とか「加トちゃん ペッ!」と言うのが御座いますが、これは極めて単純なギャグですが、タイミングがとても大事なのだそうです。真剣に、タイミングを見計らって、真面目にやらなくては、お客さんには全然伝わらない、と加トちゃんが言っておられましたよ。

不真面目はいけません。

たとえ、ここでの話の真の目的が、単なるヒマ潰しでもね。 

なんちゅったって、真面目にヒマを潰さなくてはならないのですよ。ふざけていてはいけませんよ。ふざけるのは、話だけにして下さいよ。決して、言うより易くは御座いませんね。これさえ、しっかりと認識しておかなくてはなりませんねー。とにかく何をおいても真面目に真摯にヒマ潰しに取り掛らなくてはね。

真面目に勝るヒマ潰しは御座いませんよ。

あるお方が申しておられましたよ。

ヒマ潰しにやることは、須(すべか)らくアホくさいものだと。

これは真実ですよ。キット。

毎度毎度の《停念堂閑記》がそれを如実に証明しておりますからね。科学的な論拠が御座いますよ。 

さて、定年後の御同輩、きっと、持て余しているのでは。

毎日のヒマを。

お互いに、持て余しているヒマを、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ならないのですよ。これがリタイア後の最大の課題ですからね。当然、真面目にですよ。

しかしですね。これは、これで、なかなか。ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙掛らなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

その通り。至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。 

と言うことで、本日も張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

どうです。この生真面目な姿勢。どこを切っても生真面目の金太郎飴。この真摯な生き方こそ、リタイア後のあるべき理想の姿とはお思いになりませんか。

ぬ! 思わない! 

それはそれで、結構で御座いますよ。忖度は不要です。それで良いのですよ。キット。なんちゃってね。

それでは、参ります。

 

打倒! ヒマーッ!

エイエイ オー! A A O!  

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声でんなー。

情けねー! トホホ。

 

さて、今回は、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う「アバク3原則」を踏まえて、「何でこーなっちゃってるの!」と言う事を落とし所とする有意義な(?)話をしようと思うのですよ。

ところで、夜中の2時を回ると、決まってションベンで目が覚めちゃうのですよ。極めて中途半端な時刻なんですよ。一度目が醒めると、もう一度寝付くには中々難儀なのですよね。と言って、いっそのこと、起きてしまえ、と言うには、ちょっと早いのですよ。

そこで決まって、「停念堂閑記」、今日は何で行こうかなー、ってなことになって、暗闇の天井とニラメッコするハメに陥ることになるのですよ。

でも、半分寝ぼけている状態に近いですからね。中々、「これは!」、と言うテーマには出くわさないのですよ。大抵はね。

ところが、たまーに、この半ボケ状態で、これは行けるなーと思うテーマに出くわすことがあるのですよ。

半ボケ状態ですから、覚醒している時もそうですが、大したことは思いつきませんよ。但し、何の所為でしようか。半ボケでは幅のある広い思考はできず(覚醒時だってできないけれど。いちいち、お断りしなくてはならないのが、なんとも情けないですなー。)、一つ事を対象とする思考になりがちなのでしょうかね。一つことを追求するのに良い思考状態になる事があるのですよ。半ボケ状態で、これはいーぞ、と思っちゃうことがたまにあったりするのですよ。よっしゃ、これで今日のヒマ潰しは万全だ、なんて思ったりする事があるのですよ。

ところが、こんな時に限って、すっかり安心した所為でしようかねー。明け方小一時間グッスリと寝込んでしまったりするのですよ。正に熟睡、無意識状態に陥ってしまうのですね。当然、その間は、自分も他人も何もかも全部脳ミソから消え去りますね。まだ経験が有りませんが、死んだら、おそらくこんなんなのでしょうな。目が醒めないだけで。永眠とは、正にうまいこと言ったものと、つくづく感心してしまうのですよ。

と言うことは、熟睡状態には、長短があるが毎日なるな。と言うことは、毎日死んだと同じ状態を経験していると言うことになるな。てことは、死ぬ事をすごく怖がる人は多い様だけれど、大して怖くはないみたいだね。ただ、熟睡が継続しているようなもので、目が醒めないだけだから。なんちゃってね。まだ、死んだことは御座いませんがね。

なお、気を失った経験は御座いますよ。正に、熟睡と同じ状態になりましたね。気を失った後の感覚、記憶は全く御座いませんでしたよ。幸い、気を失うまでの記憶、気がついた後の記憶を失うことは、御座いませんでしたが。

待てよ。ひょっとして気が付いていないだけか ???

もっとも、これは、私の場合ですからね。他の方々は、また、それぞれでしょうからね。しかし、一度生まれたからには、一度は死ななくてはならないのでしょうが。

 

言うまでもなく、とびっきりのテーマは、目覚めたら、スッカラカン。何にも記憶が無いのですよ。ただ、良いこと思いついたのになー、何だっけなーと言う状態になるのですよ。こうなってしまったら、始末に負えませんよ。もー、絶対に思い出せませんからね。目覚めの気分の悪いことと言ったらありゃーしませんよ。ねェー。

私の脳ミソは、どーなってるのだ。記憶する事が、不得意だねー。実に。感動しますなー。

 

さて、世の中の現状は、周辺を見渡しますと、どこもかしこもシャッキっとしない事だらけで、不満、小言ありありだったりしてしまうのですよ。自然と、小言抗米まっしぐらですなー。

実に、ジジーの出番となるのですよ。私の脳ミソ、小言抗米は好きですからねー。当然のこととして、ジジーの特徴、かなりの時代遅れは免れませんがねー。

まー、結論は分かっているつもりですよ。

要するに、社会の動き・変化が速すぎて、最早ジジーは、付いて行くのがアップアップだー。時代の変化に馴染むのに、「時間がかかるなー!」と言うことに尽きるのですわ。

ところが、これに気がつかない方(かた)がおられるのですよ。特に、政治家先生と呼ばれている方にですよ。もー、とっくに社会の動きについて行けなくなっているのに、古い常識・慣例から抜けられない方が。すぐに具合が悪くなると記憶を無くしてしまう方が、委細かまわず、議員の席にしがみついておられるのですよ。いい加減に、頼みますよ。ホンマ。

 

さて、今回は「何でこーなっちゃってるの!」ですからね。ちょっと、ゴロが良くないでしょー。

本当は、初めは「何でこーなるの!」で行きたかったのですよ。しかし、以前の欽ちゃん番組のパクリになってしまっては、と思いましてね。

そーなんですだよ。根が生真面目なもんですからね。誰も言ってくれない場合は、自分のことは自分でやらなくてはね。年取ったからと言って、他人に手間をかけさせるわけには参りませんよ。

パクリはどーもね。十分気配りしたに拘らず、パクった結果と同じだった場合もない事はないでしょうがね。故意にやるのはいただけませんなー。

しかし、意識的にパクったところで、欽ちゃんレベルと違いが大き過ぎますからね。残念ながら、はっきり言って、欽ちゃんの様に面白くは行けませんよ。欽ちゃんと年恰好は、殆ど同じですが、笑いの感覚は全然違いますからねー。比べないで下さいよ。そんな、ムダな事はしない様にお願いします。こっちとーらー、ヒマ潰しが本命ですからね。そもそも目的が全然違うのですから。くれぐれもお間違えになりません様に。

間違える訳ねーだろう、ってですか。どーも、ご尤もなことで。

 

さて、「何でこーなっちゃってるの!」と言う事に関して、それ、あれですよ、あれ。となって、中々出てこないのが、ジジーの特質なんで御座いますよ。スーッと出て来ては、ヒマ潰しになりませんからね。時間稼ぎをしなくてはね。中々骨折するのですよ。ここは、骨が折れるのですよ、と行くのをこの様に、訳の分からないことを言って、時間稼ぎをしなければならないのですよ。真面目にやるには、骨折するのですよ。骨が折れるのですよ。

ところで何でしたかね。話の本筋。下らない時間稼ぎをしている間に、本当に忘れちゃうのですよ。弱ったね。どうも。

エーとですね。エーと、アレだよ、アレ。アレはエーと、オット、そーだ、そーですよ。慣習と言うのでしょうか、習わし、仕来りと言う様な事ですよ。要するに、言わば世間で常識的に行われている事、こう言う時には、こうやるのさ、と言ったいわば決まり事のようになっている事ですよ。大して意味のない様な事が、当然の様に、まかり通っていましてね。これを外すと、えらく非難されたりすることもあるのですよ。こんなことをネタに、ヒマ潰ししょうと言うのですよ。

 

さて、今回のテーマは、「何でこーなっちゃってるの!」ですからね。どうして、「何でこーなっちゃってるの!」になったのかってですか ?  それは、ヒマ潰しの話題として、使えるのでは、と思ったからですよ。ただそれだけのことで御座いますよ。

ほんとーか ? ってですか。なんぞ魂胆があるのでは無いのかってですか。かなり疑ぐり深い性格の様ですね。魂胆なんて、そりゃー無いわけでは御座いませんよ。ちょっと、少しだけあると言えば、無いこともないのですよ。

どっちじゃー。ハッキリせんかい。ってですか。

これはですね。本当のところを言えば、成り行き次第なのですよ。行き当たりバッタリなのでね。

また、ダラダラと意味の無いことをってですか。そーなんですよ。これが、ヒマ潰しのコツなんで御座いますよ。小まめにね、やらなければね。ヒマ潰しにならないのですよ。

おっと、期せずして、小まめが出ましたね。ちょっと、白々しいですが、そうだ、ここは、小まめで行くことにしますよ。ヒマな日比憐休も歩けば、小まめに当たる。てなもんですなー。気楽に参りましょう。

そうです。ヒマ潰しは、気楽にですね、ただし、まめまめしくやる必要があるのですよ。

ホレホレ、マメと言えば、やっぱり節分の豆撒きに決まってますよね。誰が決めたのか、ですって。そーです。そこが問題なのですよ。「何でこーなっちゃってるの!」と言うことなのですよ。

「小まめ・まめまめしく」と節分の豆との関係はよくは存じませんが、ここは、マメ繋がりと言うことで、気侭に参りましょう。

今年の節分は(2月3日)、モー過ぎてしまいましたがねー。しかし、ヒマ潰しには、過ぎてしまおうが、そんなこと、一向に御構い無し。全く気にはしませんよ。

強引に持って行くなー、ってですか。

そーです。時には力技が必要なのですよ。肩透かしも良いですがね。今回は、力技で節分の豆撒きで行かせて頂きますよ。

節分にどうして豆を撒くのかね ? 「何でこーなっちゃってるの!」と言うことで御座いますよ。

節分の豆撒きについては、もー、たちまちダラダラ書きになってしまいそうです。ですから、いつものように、ダラダラでいい加減に書く事とにします。堅い事は抜きで参りますよ。と言いつつも、やっばり「何でこーなっちゃってるの!」のがテーマですから、どうなります事やら。どの方向に進むかは、何の指針も御座いません。とにかく行き当たりばったりが、ここの話のモットーで御座いますからね。コンコン馬ですわ。

コンコン馬って何だ ? ってですか。そー来られると、困っちゃうのですよ。これが自分で書いておきながら、何だかハッキリしないのですよ。どこかで、出会った気がするんですがね。どーもハッキリしないのですよ。

なんか織田信長の少年期の話として、ひょっとしたら司馬遼太郎さんの小説だったかなー。そのあたりの事は、全くハッキリした記憶がなくなってますが。とにかく、どなたかがお書きになった小説で、コンコン馬に巡り合った様な気がします。

信長は少年期には、同じ年頃の遊び仲間を引き連れて、あの紐でぐるぐる巻きにおっ立てた髷、腰に必要七つ道具をぶら下げたスタイルで、活発に馬で野山を駈けずり回っていたと言うことで、その様な信長をコンコン馬と称したと言うらしいのですよ。

その意味はと言うと、コンコンは言うまでもなくキツネのことです。要するに、キツネが馬に乗って、駆け回っている情景を言っている様です。どこをどう走り回るのか、分かったものではない、という譬ですなー。少年期の信長の日常行動を示す表現の様です。

ここでは、行き当たりバッタリで、話がどちらを向いて進むかは、分かったものでは無いとう事の表現として、ふと、頭に浮かんじゃったのですよ。しかし、記憶がねー。まー、あまり当てになる話では無い、とご理解いただければ、と思う次第です。本当のところは、言わずと知れたヒマ潰しです。悪しからず。

 

行き当たりばったりで、期せずして、司馬遼太郎さんに出会ってしまいましたが、司馬さんのお書きになられたものは、かなり読まされましたね。司馬さんの小説の面白味は、よく本筋から外れた話をお書きになっておられるところですね。ヒマ潰し話にちょっと似通ったところがあるのですよ、と勝手に思い込んでおります。司馬さんには、ご健在であれば、キット迷惑がられると思いますが。

以前にも、書いた事がありますが、学生・現役で活動していた頃は、暇があれば神田の古書屋街をぶらついたものです。自分の欲しい本が、どこの本屋さんのどこの棚に置かれているか、値段とともに熟知していましたよ。貧乏で買えなかったのですよ。情けねー。

何かを調べる時は、普通は図書館へ行くものでしたよ。学生の頃ははよく国立国会図書館へ出かけましたね。ここは、大抵の本を持ってますからね。江戸幕府が持っていた古記録、古文書の類も持っていましたからね。

朝、開館の1時間前くらいには、千代田区永田町まで出掛けて行きましたね。それでも先客が既に並んでいたりしましてね。あのー、蛇足ながら、人気のラーメン店の話では御座いませんよ。

それで、開館時刻が来て、ようやく入館できると、ここでは、閲覧は指定席ですることになっていて、入館時に閲覧席が決められました。そして、閲覧したい本の整理番号を、幾つも並べられているカードボックスで見つけ出し(これが結構時間が掛かるのですよ。)、請求事項を指定の申し込み用紙に記入して、貸出窓口へ持って行くのですよ。そして、請求した本が出てくる迄には、およそ1時間程は要するのですよ。目的の本を借り出して手にする迄に、一苦労なのですよ。

今も、そーなのかなー。今は、小型の平べったい器具で、必要情報を検索すれば、事足りるのでしょうな。上手くやれば、AIさんが論文まで仕立ててくれるご時世ですから、わざわざ国会図書館まで出掛ける方は、かなり減少しているのではなかろうかと思われますが・・・。

ある時、疲れたので、ロビーの長椅子に横になっていたところ、すぐに職員の方がやって来まして、横にはならないで下さい、と注意された事が思い出されますね。行儀の悪いことを仕出かし、すんませんでした。食堂はよく利用しましたね。一品一品のメニューのカロリーが明記されてましたね。価格も安く、助かりました。

国会図書館はその名称の通り、国会議員が調べ物をする施設の意味合いを持っています。そのための広い専用閲覧室が用意されてましたな。小生の行った時には、何時も、議員さん、秘書さんらしき方のお姿は見かけませんでしたが。一般利用者は、一般利用者用の座席が満席の場合は、それが空くまで、順番待ちをしなくてはならないのですが。議員さん用の部屋は、たいていだーれも使っておらず、無人でガラーンとしていましたね。国会開催中には、秘書さんが、すっ飛んできたり、徹夜で調べ物をしたりするのでしょうかね。そんな事しないか。関係各省庁の担当の方が、国会で質問される、また、されそうな事柄を予め調べ上げて置くのでしょうな。もっとも、国会図書館でなくとも、各省庁でかなりの規模の図書館を持っていますから、そちらで、事足りるのでしょうかね。今は、ネット情報で事足りるのかな。便利な世の中になりましたなー。国会でスマホを使うのはご法度なのでしょうね。答弁にあたり、担当大臣が、スマホで検索しだしたりしたらねー、・・・。そんなことはないでしょうなー。

そんなこんなで、私の学生の頃は、とかく国会図書館に限らず、図書館では目的の本を手にするまで、結構、時間・手数がかかったのですよ。こんな事情が御座いましたので、図書館へは向かわずに、いきおい神田古本屋街へ足が向いちゃうのですよ。いわば、神田古本屋街は、実に充実した図書館的存在だったのですよ。

ここは、借り出すための時間・手続きは不要でしたよ。高価で手の届かない本は(書棚の高いところに置いてあったわけでは御座いませんよ。)、コッソリと盗み読みし、内容の要点を覚えて、買わずにトンヅラ出来たのですよ。スマホで、こっそり写真を撮ったりはできない時代でした。今は出来るからと言って、古書に限らず、その他のことも、盗撮はいけませんよ。ちゃんと、許可を取らなくてはねー。

また、古本屋さんでは、図書館ではしてくれないサービスが御座いまして、お金を出せば、欲しい本を売ってくれるのですよ。図書館ではいくら金を出しても、売ってはくれませんでしたよ。とにかく神田の古本屋さんには、大変お世話になりましたねー。

ある時、甲州関係の事柄を調べる必要がございまして、この手の古書を沢山集めている某書店に参りましてね。欲しい本が何点か有りましたが、あいにく何時もの様に持ち合わせが足りず、買えなかったのですよ。それで、数日後に、有り金持参して、某書店に出掛けましたところ、先日並んでいたお目当の古書が、全部無くなっているのですよ。どうした事かと、店員さんに尋ねましたところ、ここからここまでの書棚にあった本は、司馬先生が全部お買い上げになられました、と言うではないですか。半端な冊数でありませんでしたよ。ゆうに数百冊は御座いましたよ。ビックリですよ。司馬さんは、こんなやんちゃな事をやっておられるのだと驚きましたね。司馬先生も、やっぱり、国会図書館より神田古書屋街が使いよかったのでしょうかね。間も無く、『武田信玄』が発表されましたね。あれだけの書物に目を通されていれば、そりゃー本筋から離れた面白い話を書きたくなるでしょうね。ひょっとしたら、コンコン馬も、どこかで見付け出したのかも知れませんね。

またもや、ヒマ潰しのダラダラ書きでした。すんません。

 

今回、「何でこーなっちゃってるの!」関係で問題にしたい事は、簡略に言えば「 節分とはなんだ ?」、「節分に、なぜ豆を撒くのだ ?」と言う事ですよ。

まず、節分についてですがね。節分とは何なのでしょうね。

こういう疑問については、もー、国会図書館へ出向く必要は、御座いませんね。インターネットが便利ですから。早速、検索してみましたところ、凄く分かりやすい情報が提供されましたよ。「節分とは文字通り季節の分かれ目のことで、昔は立春立夏立秋立冬、それぞれの前日のことを節分と言っていました。」と言う情報が提供されましたよ。

たまたま、小生が検索した結果では、「昔は、立春立夏立秋立冬の季節区分があり、それぞれの前日を節分と言った。」となっていますが、手元の手帳のカレンダーでは、今年は、2月3日が節分、翌4日が立春と書かれています。だから、昔では無く、今も節分と立春は以前と同じ扱いとされていますね。ネット情報は注意深く扱いましょう。なんちゃって。嫌味かねー。

ところが、小生の手帳のカレンダーには、5月5日は立夏、8日7日は立秋、11月7日は立冬の記載がありますが、各その前日には節分の記載がありません。

すなわち、現在は、立春とその前日を節分とすることは、行われているが、立夏立秋立冬の前日を節分とすることは、一般には行われていないようです。

と言うことは、独偏(独断と偏見の略語)では、立春の前日の節分は、多分、季節の区分というよりは、後で述べる「豆撒き」を知らせる意味の情報となっているのではなかろうかと、思われるのですが、いかがなものでしょうか ?  どーだか ? ? ?

ということで、節分は、春・夏・秋・冬と言う季節の別れ目を意味するものだ、と言うことですね。もっとも、年間を24季節に分ける考え方が御座いまして、その中から、立春立夏立秋立冬と言う4季節を取り出して、生活に役立つ情報として使っていると言うことなのでしょうね。24節季については、これに引っかかりますと、ダラダラ書きこの上無しの事態に陥ること間違い御座いませんので、ここでは触れることは致しません。

なお、ネット情報によりますと、季節の別れ目として節分と言うのが始められたのは、「昔」だそうです。

ネット情報は、気をつけなければなりませんよ。しょっちゅうフェイクが当たり前となっていたりしますからね。しかし、ここの情報は、間違いないですな。「昔」のことと言うのは、信ずるに足りますね。間違いおまへん。具体性は全く御座いませんが、ウソとは言えません。本来の疑問に対する答えとなっているか否かは、さておくとして、ここではこの情報を信用することにして、あえて深く追求する事は致しません。節分(蛇足ながら、ここでは豆撒きの事を意味していません。季節の別れ目と言うことです。)の起源について、とやかくツッツキ出しますと、いくらヒマ潰しとは申せ、ダラダラ書きが、止まらなくなりそうですので、ここでは、キリッと、節分は、「昔」からあった、と言うことで、通り過ぎることに致します。通り過ぎたく無いお方は、どうぞご自分でお調べ下さい。なお、ネット情報には、くれぐれも気をつけて、慎重に対応して下さいませ。余計なお世話で御座いますが。

 

さて、次に「何でこーなっちゃってるの!」に関する疑問の一つは、なぜ節分に豆を撒く事になったのか、と言う事であります。

節分に豆を撒く事になった慣習の起源についてですが、前述した様に、節分は、立春立夏立秋立冬との前日とされています。ところで、現在、豆を撒くのは、立春の前日の節分に限られている様ですね。小生は、立夏立秋立冬の前日にも豆を撒くか否かについては、調べた事が御座いませんので、確かな事は何も言う事ができません。気になるお方は、どうぞご自分でお調べ下さい。なお、ネット情報には、くれぐれも気をつけて、慎重に対応して下さいませ。余計なお世話で御座いますが。

現在は、節分の豆撒きは、立春の前日に行うのが一般的になってますね。節分の豆撒きと言いながら、どうして立春の前日の節分にだけ豆撒きをするようになったのでしょうかね。「何でこーなっちゃってるの!」となるのですよ。

これについては、ネット情報によれば、いろいろなご意見が見られますが、季節の変わり目には、伝染病や災害が起こりやすい。要するに、立春の前日の節分は、時節的にまだ寒く、体調を崩し易い時節だったから、伝染病や災害を追い払いたいと言う願いがあった。そこで、伝染病や災害を鬼に見立て、それを追い払う目的があって、豆を撒いたのだ、と言う意見がありますよ。

一見納得させられるようになるかもしれませんが、何だかよく分からないところが御座いますね。もし、それならば、立夏立秋立冬の前日の節分だって、季節の変わり目で、伝染病や災害の起き易い、体調を崩し易い時節ですよ、と言う屁理屈を言いたくなってしまうのですよ。

また、何故に、伝染病や災害をいきなり鬼に見立てる事になったのでしょうな。伝染病や災害を引き起こす悪が存在するとすれば、その代表が、なにも鬼でなくったって、妖怪だって化け物だって、良さそうなものですよ。鬼さんだけ、いい迷惑ですだよ。

またまた、豆をまく時には、大声で「福は内、鬼は外」と言う事になりますから、鬼は、福の反対の立場に位置付けられてますな。それならば、福の反対なら鬼ではなく、禍(わざわい)、災いとでも言った方が良いですよね。

エッ、禍はゴロが良くないってですか。確かに、ゴロは禍より、鬼の方が優ってますな。と言うことは、鬼に落ち着いたのは、ゴロが良かったと言う事に由来したと言う事ですかな。卓越した新説登場ですな。? ? ? かな。このことは、ネット情報には、まだ見られませんよ。

ヒマ潰しのタワゴトで御座います。失礼致しやした。

 

ところで、伝染病や災害を追い払いたい、と言う願望は常にあったようですな。これに関しては、ネット情報では、「追儺(ついな)」と言われる古来中国の宮廷で大晦日に行われていた鬼を払う行事があったそうです。日本へは奈良時代頃に伝わり、旧暦の節分は大晦日に当たるため、新しい年を迎えるにあたり、厄災を払う伝統行事として、定着しました。とネット情報に見られます。

奈良時代頃」と言うのは、「頃」が付くと、時期がはっきりしない表現となり、奈良時代だけではなく、その前後の時代も含まれるのか、とも解釈もできちゃったりするのですよね。。そうなりますと、えらい長期間になりますな。これくらいの長期を想定しておけば、外れはないか、と言う事になりますかね。オイオイ、言葉尻をとった、屁理屈はよせってですか。これが、ジジーの楽しみ。悪い癖なんですよ。悪しからず。

 

また、ネット情報では、「古くから季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると言われ、平安時代には邪気を祓う追儺(ついな)という宮中行事も行われていました。別名、鬼儺(おにやらい)とも呼ばれています。この儀式が現代の節分行事のルーツになったと言われています。」ともされていますよ。

またネット情報では、豆まきは、もともと中国明時代の風習で、日本に伝わったのは室町時代だ、ともあります。

さらに、なぜ大豆をまくのかについてはさまざまな説があるが、「魔を滅する」から「魔滅(まめ)」になったという説が一般的だろう、との事です。ネット情報は面白いですね。

前に紹介したように、豆撒きは、中国明時代の風習で、これ室町時代に日本に伝わった、と言うことは、既に、中国では明時代に、「魔を滅する」から「魔滅(まめ)」になったと言うダジャレをやっていたと言うことになりますね。明時代の中国人の中には、実に日本的ダジャレの達人がおられたようですな。卓越した見解ですな。いよいよネット情報ファンになってしまいそうですね。ネット情報は、とにかく自由ですなー。

さらに、豆撒きの豆が、なぜ大豆となったかと言うと、「日本では、古くから米、麦、ひえ、あわ、大豆には”穀霊”と呼ばれる精霊が宿っていると考えられていました。そのなかでも大豆はもっとも粒が大きく、ほかより多くの精霊が宿るとされています。そのため、鬼の退治に最適とされ、豆まきによく使われているのです。」と言い切ってますね。幾分意味不明では御座いますが、ネット情報は、迷いが御座いませんな。キッパリと言い切ってますからね。

大体、豆撒きには、大豆を炒って使いますが、このような精霊の塊(かたまり)の大豆を炒ってしまって良いのですかね。オマケに、食べちゃうのですよ。なんと言う御無礼を。節分の豆には関係御座いませんが、「ポッポッポ ハトポッポ 豆が欲しいか」の豆も大豆ですよね。大豆の精霊の行く末は、ハトポッポの糞と化するのですな。ああ勿体無い、勿体無い。バチが当たりはしませんかね。

なお、豆撒き用の大豆はなぜ炒るのかと言うと、こんな話が紹介されています。

「昔、人を食べる鬼がいて、困った人々は神様に泣きついた。そこで神様は「この豆から芽が出たら人間を食べて良いが、もし出ないうちに人間を食べたら罰を与えるぞ」と鬼に豆を渡したという。「たやすいこと」と、畑に豆を撒いた鬼だが、いくら待っても芽が出ない。なぜならその豆は炒ってあったからで、この後鬼が人を食べることはなくなったという。」。中々素直な鬼さんではあります。さすれば、鬼は農業をやっていたのですね。農民だったのだ。知らなかったー。

なんかユニークな神様がおられたようですね。鬼を騙したのだってさー。神様は、万能だから、鬼を騙してもとやかく言われる事がない存在であります。他の者が、他人を騙すと、とにかく、マスコミが黙っておりませんよ。そしたら、警察が動く事になりますからね。とっ捕まってしまいますよ。

騙された鬼は、詐欺にあったようなものだね。鬼は、人を食わなくなったのだって。もしも、炒り方が不十分なのがあって、これが発芽したら、鬼は人喰いを神様から公認されたことになりますなー。そんな訳で、節分の大豆は、徹底的に一粒残らず、完璧に炒っておかなくてはならないのですよ。

そもそも、鬼は人を食ったのかね。鬼ヶ島に乗り込んだ桃太郎の場合は、食われる危険があったのは、人間の桃太郎だけで、お供の犬、雉、猿は食われる心配はなかったのかね。また、桃太郎は、武器として、炒り大豆を持参したと言う話は、あまり聞きませんな。持参したのは、キビ団子です。大豆は持って行かなかったようですね。ヒマ潰し話でした。

また、節分に撒いた大豆は、年の数だけ食べるようにと言われますね。これも、「何でこーなっちゃってるの!」と言うと、「地方によっては節分を「年取りの日」と言って、この日に一つ年をとると考えていた。そのため、年の数だけ豆を食べるという風習が生まれたのだろう、だって。節分は、旧暦では大晦日でもあるからね。ちゃんと、理由が示されていますよ。

しかし、歳の数だけ豆を食べると、どうだと言うのでしょうね。

また、歳の数以上に豆を食べちゃった場合は、どうなります。勿論、食べた分だけ、早く歳をとってしまうのでしょうか。少なく、一粒だけ食べた場合は、生まれたばかりの赤ちゃんに、戻ってしまうのかなー。とりあえず、気をつけましょう。

なお、このような見解に、横槍を入れるのは、無粋極まり御座いませんが、蛇足ながら、正月のおせち料理に黒豆がなぜかしっかりと鎮座なさっております。おせち料理の中でも、最後まで、頑張っておられる存在のようです。こちらも厄除け、鬼退治に関係しての事かと思いましたが、こちらは、ネット情報では、「まめまめしく過ごしましょう」のダジャレ的な事で、疫病退治のことは、一切出ておりませんでした。節分の大豆と、おせち料理の大豆は、なんら関係のない別物のようで御座いますよ。

なおまた、今は節分に撒くマメは、一般的には大豆と言うことになってますな。しかし、北海道では、大豆をいっぱい生産しているのに、皮付きの落花生を用いるのが、今は一般的になっている様ですよ。道産子は、大豆より落花生が好きなようですなー。撒いた後で、殻付き落花生の方が拾い易い利点は御座いますな。

大豆と落花生では、かなり意味合いが違いますよね。落花生に精霊は宿っているのかね。

また、北海道では、古い慣習に従わなくても、あまり気にしないところがあるのではないのかと思われますね。独偏(独断と偏見の略語)ですが・・・。

多分、撒いた後で、拾って食べるのは、落花生の方がいいんでないかい。となったのではないでしょうか。と言うのが独偏(独断と偏見の略語)の感想で御座います。

当然、北海道の鬼は、ぶつけられた落花生を畑に蒔いて、早く目を出せ落花生、となるのでしょうが、こちらも炒ってあるので、発芽はしませんなー。豆撒きは、もー随分以前から、長いことやっているから、鬼だって、芽は出ねー、と言うこと知っているよね。おそらくねー。

 

と言う次第でありまして、甚だ、良い加減では御座いますが、節分の豆撒きに関わる「何でこーなっちゃってるの!」は、一件落着で御座います。

 

ところで、ここからがややっこしいのですが、だからどうだ、と言う問題が残っている訳です。

セッカチに結論を急げば、要は、例えば、節分の豆撒きだけではなく、社会には色々様々な慣習、仕来たりがあり、これ等がいわば社会を形成しているところがある。すなわち、我々は、この様な環境で、生活を続けている、と言う事なのですよ。もっと、分かりやすく言えば、私たちの日々の生活に、この様な慣習や仕来たりが深く関係している、と言う事ですよ。

注目されることは、例えば、節分の豆まきのように、正確には、なお不明な点が多いけれど、大さっぱに言えば、千年もまだも以前に考えられていた事が、なんと現在に到るまで、全く同じ考えとは言えないけれど、概ね継続され、慣習となって、社会の一部分を形成している訳ですよ。

 

この様な環境で、我々は、色々な慣習を踏襲し、日々の生活を送っていれば、あまり不都合を感ずる事も少ないのかも、知れませんね。

しかし、時に、慣習の励行は、厄介だなー、何の意味があるのだー、と感じたりする事が、御座いませんか ?

と言う時に、「何でこーなっちゃってるの!」 と考えてみるのはどうでしょうかね。

慣習は、こうなる迄には、当然それぞれ、それなりの理由、事情があってのことなのでしょうがね。しかし、意味のない事に付き合わされるのは、これはこれで中々難儀な事ですよねー。皆さんはこう思うことは、御座いませんか。私ゃー、しょっちゅうこのような事態に遭遇するのですよ。何だか意味がわからないけれど、昔からやってきた事なので、あなたも付き合いなさいよ。と言う、事態に時々遭遇しますよね。

また、反対に、個人レベルで見ますと、ややっこしい事に対しては、あまり考えるのが苦手だ。今まで通りで良いじゃないの。なんて、考えもせず、過ごしてしまう事が、多かったりしませんか。

一般に、この様な事が多く見られるのではないでしょうかね。

多少の難儀な点が見られても、これまでの慣性に従って、それはそれは辛抱強く、日々を送っていらしゃる方が多くおられる様に、お見受け致しますなー。

日本人は、基本真面目(?)ですからね。そして、日頃は、生活に追われて、日常の必要以外の事を考えたり、行動したりする事が、現実的に無理だ、と言う状況もありますよね。

と言う様な事で、現状に、幾分引っかかるところがあっても、惰性的に旧来の仕方に従いがちでは御座いませんか。

ところがですよ。国民が辛抱強くやっているのを良い事に、平然と良からぬ事をしている先生と呼ばれている方々が、いらっしゃるようでしてね。具合の良くない事が明るみに出て、取り調べを受ける羽目になっても、そんな事は知らない。記憶にない。などと白々しいウソと見られる言い訳に終始して、結局ごまかし通してしまう。実に、困った連中がいますね。国会に乗り込んで、盛大に、「鬼は外ー」とやりたくなったりしませんか。

だから、国政選挙の時には、慎重に、現状が「何でこーなっちゃってるの!」を考慮する必要があるのではないでしょうか。

時には、やはり一度立ち止まって、「何でこーなっちゃってるの!」をやってみた方が、よくは御座いませんかねー。

きっと、ただただ、慣性に従っているだけでは、ストレス解消とは行きそうに御座いませんよ。

ストレス解消のために、たとえ節分ではなくても、時々「鬼には外」を思いっきりやってみてはどうかなー。

 

何だか、良くはわかりませんが、ダラダラ書きも、結構疲れますので、今回はここまでと致します。

 

どうもお疲れ様で御座いました。

またのお越しをお待ち申し上げます。

お後がよろしいようで。