《停念堂閑記》162
「気配りの時代」
ようこそ、「停念堂閑記」へ。
よくお越し下さいました。厚く御礼申し上げます。
よほどおヒマなのでしょうか。他に行く所が無いのですか ?
失敬、失敬。とんでも御座いません。ご多忙の中「停念堂閑記」をお開き頂きまして、誠に有難う御座います。どうぞ、ごゆるりと、ヒマ潰しをなさって下さいませ。
早速、恐縮で御座いますが、ここでの話は、相も変わらぬ、毎度毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う、略して「アバク」の三要素を兼ね備えた、行き当たりバッタリの、底、奥行きのメッチャ浅い、要するにヌケ ? な話です。 すみません、マが抜けてしまいました。まさに、マヌケな話で御座います。
と言う事でして、あまり期待をなさらないで下さいね。
そんな事、元よりしていないってですか ?
アノー、ですね。日本には、忖度(相手の気持ちを考慮すること)と言う文化があるのですよ。自分はさて置き、まずは相手を気遣うと言う、なんと麗しい(?)文化では御座いませんか。
ところが、現在は、忖度すると言うのが、いけない事の意味合いに感ずる方(かた)が多い様に見受けられますなー。おそらく、政治の場において、かつて権力者に対する忖度が際立ち、弱者側に目を向けない場合が多く見られた所為(せい)ですかね。それで、一般的に忖度すること自体、歓迎されないことが、多くなった、と感ずるのは、小生の独偏(独断と偏見の略語)でしょうか。
特に、今時の若者は、時に、忖度を敬遠する傾向があるように見受けられますが、ところが 一方では “場の空気を読めよ” なんて事をよくおっしゃっているのをよく耳にしますなー。マー、その時々の感情優先と言うことなのでしょうかねー。
しかし、日比憐休のマヌケな話とは申せ、多少の取柄もございますよ。それは、決して深刻にならないところです。夜、眠れなくなったりしませんからね。
かつて、春日三球・照代さんと言う漫才師がおられまして、地下鉄の車両がどのようにして地下の線路に入れられたのかを考えると、夜も眠れなくなる、と言うネタで、結構受けていた事があったのですよ。蛇足ながら、若者諸氏へ。
ここでの「アバク」な話は、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。
ただし、生真面目な(?)ところが、唯一、トビッキリの取柄(?)なんですよ。
ホンマかいな。どこが、真面目なんや ? ってですか。
たとえトンマなフザケタ話でも、真面目に取り組まなくてはいけませんよ。とにかく人間不真面目はいけません。
たとえ、ここでの話の真の目的が、単なるヒマ潰しでもね。
なんちゅったって、真面目にヒマを潰さなくてはならないのですよ。ふざけていてはいけませんよ。ふざけるのは、話だけにして下さいませ。とにかく何をおいても真面目に、真摯にヒマ潰しに取り組まなくてはね。人の道に悖(もと)りますよ。
あるお方が申しておられました。
ヒマ潰しにやることは、須(すべか)らくアホくさいものだと。
これは真実ですよ。キット。
毎度毎度の《停念堂閑記》がそれを如実に証明しておりますからね。科学的な論拠です。
《停念堂閑記》が科学の範疇か ???
さて、定年後の御同輩、きっと、持て余しているのでは。
毎日のヒマを。
お互いに、持て余しているヒマを、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ならないのですよ。これがリタイア後の最大の課題ですからね。当然、真面目にですよ。
しかしですね。これは、これで、なかなか、ケッコウ手間隙かかるのですよ。
手間隙掛らなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。
そうです。その通り。至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。
と言うことで、本日も張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。
どうです。この生真面目な姿勢。どこを切っても生真面目の金太郎飴。この真摯な生き方こそ、リタイア後のヒマ潰しのあるべき理想の姿とはお思いになりませんか。
アホカッ ! って。
ヌッ! 思わない!
それはそれで、結構で御座いますよ。忖度は不要です。まー、好みは、人それぞれですからね。それで良いのですよ。キット。ぜったいに、負け惜しみでは御座いませんよ。ホント。
なお、はじめに、謝っておきます。この超猛暑の中、一所懸命お働きの皆様、ふざけた話で、申し訳御座いません。どうぞ、ご勘弁の程を、お願い申し上げます。
それでは、参ります。
打倒! ヒマーッ!
エイエイ オー! A A O!
ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声でんなー。
情けねー! トホホ・・・・・
今回も、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う「アバク3原則」を踏まえて、なんと途轍もない有意義 (?) な話をしようと思うのですよ。思うのは自由ですからね。自由はいいね。あれこれ制約されたら、たまりませんね。日常生活が楽しくなくなりますからね。ですからね。制約は、出来うる限り無い方が良いですね。なんでも、する前に、まず、規制をと言うのは、感心しませんね。
ところで、前以てお断りしておきますが、有意義(?) な話は、往々にして、全然面白味が御座いませんよ。決して、ウソは申しません。この点は、トクト心しておいて下さいませ。絶対に面白くないですからね。
サー、面白くない話で、思いっきり凹(へこ)み下(さ)がりましょう(「盛り上がり」の反対のつもりです。)。もしも、多少とも、面白いと感じた場合は、めったにないめっけものと思って下さいませ。おそらくダメだと思いますが。でも、手違いが生じたりすることが、ないわけでは御座いませんから。タマーニ、間違えて面白い事を書いちゃったりする事があるかも知れませんよ。ないと思うけどね。
さて、ここでの話は、今言ったばかりですが、、有意義(?) な話で御座います。実は、有意義かどうかは、それぞれ人によって異なりますよ。AさんとBさんでは、全く価値観が違う場合がありますからね。と言うよりは、細かく見ると、一人一人みんな違いがありますからね。価値観が同じと言う方が、珍しいですよ。価値観が同じなんて言うのは、きっと良い加減な大雑把な話をする時ですね。
皆んなそれぞれ個性が異なりますからね。結婚して間も無く、連合いと価値観が違うと言って、離婚する人がいますが、えらい勘違いをしていたのでしょうね。価値観なんて、何につけゼーンブ同じなんて言うことは、無いですよ。恋愛の最中に、おんなじー!、なんて思ったのは、単なるその時の極めて狭い部分についてのことで、なんでもと言うのは、全くの勘違いと言うものですよ。一人一人異うのですよ。これは、よく心得ておかなくてはなりませんよ。結婚して、たまーに、あっ、これは意見が一致したわ、という事が万が一あったなら、わーい、同じ同じと言って、大いに喜び合えばいいのですよ。大体は、何処か違うことを感じたり、考えたりしているものですからね。結婚生活なんて、同じ価値観に遭遇することを期待しての、それは頗る厄介なメチャクチャ難儀な遠い遠い道程なのですからね。ナンチャッテ。
どうです。なんて有意義なことを言っているのでしょうかネー。これでモー迂闊に結婚したり、離婚したりする人が、いなくなりますからね。実に、なんと有意義な意見では御座いませんか。
ヌッ !
「停念堂閑記」は、これでいいのか ?
ナンカ、違うな。「停念堂閑記」は、こんなこと言っていては、ダメだね。「アバク」に徹しなくては。昨夜は暑苦しくて、完全に寝不足だから、頭の回転が何処かおかしいな。通常に増して、すこぶるヘンテコリンだぞ。よし冷たい物でも飲んで、正常を取り直すか。
冷たいカルピスは美味いねー。初恋の味! なんて言ったもんだね。若者様には、通じないかもなー。(長期にわたるカルピスのコマーシャルです)。
ハッ!
何を言ってるんだ。「停念堂閑記」だぞ。寝ぼけ頭は、冷たいものくらいでは、回復しないな。弱ったね。
全く。なんたって、「アバク」な話を作らねば、意味がないな。前回は、無鉄砲にも、無理やり「無鉄砲」の話で押し通したなー。今回は、どうしたものかなー。トビッキリ有意義な話でなくてはなんねーな。
行き当たりバッタリで、手頃な話のネタに巡り会えるか。そー簡単ではないぞ。
しばし、考えなくてはねー。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ~
オット、ソーダ !
ナヌ ! カルピスの次は、ソーダか。
違いますよ。違いますよ。閃いたの。
「気配り」だ !
これだね。今回は、「気配り」で行こう。
とは言え、こういう漠然としたのは、難しいな。こう言うのは、あたしゃーあまり得意じゃーねーな。と言うより、苦手と言った方が正解ですな。
どーしてかと言うと、理由はいたって明瞭簡単。私ゃー、「気配り」が、トント駄目人間なんですだよ。早い話が、配ろうにも配るほどの気を持ち合わせないのですだよ。ちょこっと配ったら、もー底をつく。お終いだ。弱ったねー。
そもそも「気配り」って、どう言う意味なのだ。普段、疑問を持たず、使ったりしているが、わざわざ調べたことがないね。なにで調べるかね。
困った時には、神頼みと言うけれど、今まで、何度もおねげーしたことがあるけれど、一度も神様が助けてくれた試しがねーな。「気配り」とは、こう言うことさと、教えてくれる神様がいるかーね。
アホか。いるわけないよ。そんなことがあったら、時化に・テストなんぞ、意味なくなっちゃうよ。
頼むだけムタだね。最近は、もー諦めちゃって、頼まないけどね。
今時は、やっぱりネットだね。困ったときのネット頼みだね。時々、あてにならないことも、多々あるけれど、今時は、取り敢えずまずネットだね。
「気配り」。ハイ、検索と。オット、出ましたよ、出ましたよ。
き‐くばり【気配】
[名](スル) あれこれ気を使うこと。手抜かりがないように注意すること。心づかい。配慮。
だって。
念のために、『広辞苑』に当たってみるか。疑り深い性分だからね。
サー、『広辞苑』、『広辞苑』と。オット、相変わらず重たいね。『広辞苑』と付き合うには、筋トレが必要だね。マッタク。
サーテ、「気配り」、「気配り」と。どうでも良いけど、文字が小さいね。『広辞苑』の友が必要になるね。虫眼鏡、虫眼鏡と。老眼鏡では間に合わねーだよ。手間かかるねー。マッタク。
さてと、
き・くばり〔気配り〕 不都合・失敗がないように、あれこれと気をつけること。
だってさ。
疑り深いからね。もう一つ行っておくか。『日本語大辞典』では、
きくばり〔気配り〕 細かに気を使うこと。心づかい。
だって。
ことはついでだから、もう一つ行ってみるか。手軽に使える『新明解国語辞典』では、
きくばり〔気配り〕 まちがいや失敗のないように、細かい所まで注意を行き届かせること。
とありますよ。
更にもう一つ行っておくか。シツコイね。マッタク。『新潮国語辞典』には、
キ くばり 〔気配(り)〕 方々に注意すること。心配。
だって。
まー、こう言う事ですよね。
各辞典の編纂方針・解説者によって、若干の違いが見られますなー。差がある様にも、ない様にも、微妙様なところも見られますかねー。まー、結局は、読む人が、どう解釈するかによるところがあるかも知れない、と言うところでしょうかね。
なお、分かりきった余計なお世話でございますが、『新潮国語辞典』の「方々に注意すること。心配。」の「注意」は、「○○をしてはいけませんよ」と言う意味では御座いませんね。また「心配」は「しんぱい」ではなく、「こころくばり」ですね。『新潮国語辞典』では、送り仮名を付けない編纂方針の様ですよ。蛇足ながら。僅かながらのヒマ潰しまで。
さて、甚だ僭越では御座いますが、日比憐休と致しましては、要するに、「気配り」と言うのは、置かれている環境で、万事手抜かりがないように配慮すること、と言うくらいの意味合いに思われます。このくらいでどうでしょうか。
と言うことで、この場をトットと行き過ごしたいところですが、どっこい、「停念堂閑記」としては、さっさと行き過ごしては、具合が良くない事情と言うものが存在するので御座いますよ。ここでは、一応、あれこれと時間をかけなくては、ヒマ潰しと言う観点からは、ハイ、これでお終い、と言うのは、具合が良くないわけですよ。
と言うことで、愚にもつかない事をあれこれ考えなくてはならない事情と言うものがあるのですだよ。
てなことで、何か考えなくてはねー。
とは言え、行き当たりばったりで、そうそう上手く行くとは、到底思われませんよ。ただ「停念堂閑記」では、幸い上手下手には、全く気を使わなくて良い、と言うことにしてあるのですよ。上手下手の気遣い一切無用。すなわち、出来不出来には、一切「気配り」しなくて良いのですだよ。何でも気楽に行ける、と言う設定になっているのですよ。ズルっこいでしょう。実にそうなんで御座いますよ。渡る世間は、万事要領と言うではありませんか。と言っても、こんなヒマ潰しをしている様では、あまり要領が良いとは言えねーな。と自分自身に言い聞かせなくてはねー。骨が折れますよ。マッタク。脳みそが骨折しそうですわ。脳に骨があるかってですか。骨が折れることが、すなわち骨折と言う事ですだよ。
オット、ソーダ。脳にも、骨があるのですだよ。知りませんでしたか。人が死亡すると、火葬された後、これを預かってくれるところが、あるのですよ。もう分かってますよね。そうです。納骨堂ですよ。ここで怒ってはいけませんよ。オー、ノーと軽く笑いとぱして下さいませ。それにしても、なんともクラシックなダジャレでんなー。我ながら、実に嫌になっちまいますなー。オーノー !
さて、一般的に、信頼度が最も高い辞典の一つとされている『広辞苑』の「き・くばり〔気配り〕 不都合・失敗がないように、あれこれと気をつけること。」では、取り敢えず、「不都合・失敗」つぁー何だ、なんて余計なことを気にしなくてはならなくなったりしましてね。ちょっと、厄介な気がしますね。不都合・失敗なんぞは、その個人によって、事情が異なりますからね。とナングセをつけたところで、『広辞苑』の解説が間違っていると言うことでは、全く御座いませんよ。要は、「停念堂閑記」における第一の目的は、ヒマ潰しでありますから、とりあえずは、時間稼ぎ、時間稼ぎですから、勘弁して下さいませ。
さー、この解説をどの様に、ヒマ潰しに持って行けば良いのですかねー。
何か、取っ掛かりはないものですかね。
「気配りする」となれば、一般的状況として、気を配る主体が存在するわけですね。そしてまた、気を配られる対象が存在するわけですね。ひっくり返して言えば、気を配られる対象が存在し、気を配る主体が存在する、と言う状況ですよね。
しつっこい ! ひっくり返す必要がどこにあるか、ですよね。どこかに、ないものですかねー。
弱ったね。しかし、ここはなんとかしなくてはねー。ヒマ潰しも中々ゆるくないですなー。
はてさて、「気配りする」と言う行為は、その行為をする主体と、その行為を受ける側が存在すると言う事ですなー。
要するに、「気配りする」のは、その主体側の行為と言うことになるでしょうから、不都合、失敗は、その主体側からの判断と言うことになるでしょうから、要するに、気配りする主体にとって、不都合か、失敗か、と言うことです。ですから、『広辞苑』の解説は、この観点からすれば、何の問題も御座いませんよね。と言うことになりますよ。これで、ここは一件落着と言うことですわ。めでたしめでたし。結局は、なんの面白みのないヒマ潰しでんなー。申し訳ございません。
さて、面白くないヒマ潰し話は、なおも続きますよ。
ところで、いくらヒマ潰しとはいえ、なんで今時「気配り」なんてことに、引っかかったのか、と言いますと、色々と各個々人に違いがあることは、当然のことと思われますが、日比憐休と致しましては、現今の社会において、この「気配り」に、ことさら気を配っておられる方が、かなり目に付くのですよ。
より分かり易く言えば、普段の社会生活上、「気配り」が必要だ、「気配り」が大切だ、「気配り」しなくてはダメ、と思ってらっしゃる方が、実に多数おられるように、お見受けするのですよ。
要するに、近時、「気配り」云々と言うことが、あちこちで、大いに取りざたされている様に感じられるのですよ。独偏(独断と偏見の略語)、独偏ですよ。
すなわち、いつの時代にも、渡世上「気配り」は必要と思われてきましたが、現今社会では、それが、極めて重要視されているのでは、と言うことなのですよ。今の社会の一つの特質と言って良いのでは、と思えるのですよ。
すなわち、この原因の一つは、今時何かある度に、とかく「ハラスメント」が叫ばれることが多くなったと感じられるのですよ。まさに、「ハラスメント主張時代」到来の感がありませんか。
要するに、「ハラスメント」に、以前よりはことさら「気配り」しないと、ちょっとし事と思われて来た事が、ど偉いことになりかねない、と言う時代が到来したのですよ。
一番困るのは、どの様な事が「ハラスメント」となるのかどうか、まだまだ具体的には、認知されていない、と言うことではないのでしょうか。段々慣れてくるでしょうが、しかし、まだ、とっさに判断できなくて、失敗する恐れが、とにかく心配されるのですよね。時を経るに連れて、関係の法令もより整えられ、関係する判例も増加するでしょうから、時間が経つに連れて、要領よくやる事が出来る様になるとは思われますが。まだ、馴染んでいないと思われますね。
社会は他人との関係無しに、成立しませんから、どこかで誰かと、何らかの関係が生じているわけで、その事情により、「気配り」云々と言うことが発生する訳でしょうね。
例えば、家庭内ではどうかと言いますと、親子関係、夫婦関係が存在しますね。ここにおいて、以前より、最近は、「気配り」の必要がより重視される様になって来た様に感じられませんか。
例えば、欧米では、夫が妻に、頃合いを見計らって、アイラブユーと囁くことが、日常生活の習慣となっている様ですな。この囁きを怠ると、場合によっては、ややこしい事態へと発展し兼ない場合もなくはない様で御座いますね。
日本では、日常生活におけるこのような習慣は、一般的には御座いませんでした。明治になって、欧米の文化が盛んに取り入れられましたが、夫とから妻への日常におけるアイラブユー文化は、ほとんど定着しなかった様です。
夏目漱石のところへ、一人の学生が来て、アイラブユーをどの様に翻訳したら良いかを尋ねたそうで。
そうしたら漱石先生は、日本では直訳の「私は貴方を愛してます。」は、馴染んでいないから、この場合「月が綺麗だね」と言うくらいが、良いのでは、と教えたそうだ。と言う話を聞いたことがあります。
さすが文豪ですね。これが日本的なアイラブユーと言うことなのですねー。
ところが、この話を耳にした、いわゆるオッチョコ系の御仁が、彼女を誘ってデートの時に、ここぞと言う場面で、「月が綺麗だね」とやったところ、彼女さんに見事振られちゃったと言うのですよ。
「なに馬鹿なことを言ってるのよ。今日は闇夜だよ。」だって。
はたまた、不慣れな夫が意を決して、妻に「月が綺麗だね。」とやったところ、「なに寝ぼけてるのさ、真昼間に。どこに月が見えるのよ。」と一蹴されちゃったんだってさ。なさけねー。
やはり時と場所柄を考慮しなくてはね。
と言うことで、ケースバイケースで、幾通りもの殺し文句を用意しておく必要がある様です。
という様に、日本では、アイラブユー文化は、なかなか定着し難い様ですね。
夫側からすれば、そんなこといちいち口にしなくても、分かっていることではないか、という言い分が、多分過去長い間続いて来ている様に思われますね。
しかし、最近は、口に出して言ってもらわないと、分からないよ、納得できないよ、と言うご婦人側の主張が、強くなって来ている御時世の様です。
また、アイラブユーは、夫が妻に適宜囁かなければならないのかと言うと、男女平等の見地からすれば、妻から夫にも囁かなくてはならないと言うことになりはしませんかね。
これも過去を振り返れば、日本社会でには、あまり一般的ではなかった様に思われますね。これについては、専門的見地から調査したことが御座いませんので、全くの独偏(独断と偏見の略語)ですが。
しかし、日常生活において、妻からその様なことを言われたことがない、妻からも日常的に言うべきだ、と騒ぎ立てた夫はあまり見聞きしたことが御座いませんね。過去の日本社会では、その様なことで騒ぎ立てることは、男として、とてつもなくカッコ悪い事と、認識されがちだったのではないのでしょうかね。と言うか、要は、その必要を殆ど感じていなかったのではないのでしょうかね。男としては、アイラブユーと言われるよりも、凛々しく、真面目で、仕事が良くできて、収入も多く、社会的地位も得られていて、言動も正しく、スホーツも良く出来て、頼もしいわ、頼り甲斐がある、カッコいい、立派だなどと言われた方が、多分アイラブユーより嬉しかったのではないのでしょうかね。独偏(独断と偏見の略語)ですが。
多分、毎週教会へ出かけ、キリスト教の教えに基づく日常生活を送って来ている欧米とは異なり、主に儒教や仏教の教えに基づく日常生活を長期にわたり送って来た日本の社会では、アイラブユー文化は、定着しずらかったのではないのでしょうね。孔子様は、男女関係、夫婦関係のあり方について、まり論究はなさらなかった様ですね。
流石の孔子様も、「子曰(のたま)わく、月が綺麗だね。」、とは、なかなかやりにくかったのではないのでしょうかね。
朱子学では、主従関係が、強く主張されましたから、その範疇で男女・夫婦間の関係が形成されたのでしょうね。それが、時代の進化に伴い、どんどん国際的な交流がより盛んになって、欧米式の文化に影響されることが多くなって来て、朱子学的文化が後退して来ている、と言うことなのかも知れませんね。特に、こよなく平等を叫ぶ人々が多くなって来て、社会における人間関係の部分においても、これまでと別の新たな「気配り」が必要となって来た、と言うことの様に、感じられるのですが。全くの個人的な独偏(独断と偏見の略語)ですが。
子供との関係でも、親が子供に何か用事を頼んだ場合、それは当然子供がきくのがあたり前と言うのではなく、兎に角、家族内であっても、何かをしてもらったら、いちいち丁寧に、謝辞を述べなくてはダメ、と言うのが最近の傾向ではないでしょうか。テレビドラマなどでも、この様な場面が、実に多く見られる様になりましたね。したがって、この様な場面での「気配り」が、当たり前となって来ている現状なのでしょうね。
これが、家族から離れて、会社、学校、隣近所など一般社会における人間関係においても、強く求められる場合がある様ですね。
一般社会においては、例えば、隣近所の人付き合いは、むしろ適当に距離を置いた、どちらかと言えば、ほどほど希薄な関係を好む様になった気がしますね。要するに、独偏(独断と偏見の略語)では、従前の「気配り」がどちらかとう言うと、いわばお節介の方向で行われ勝ちだった様な気がするのですが、近時は、他人にはお節介な口出しはしない方が良い。また、自分のことについても、余計な口出しをされたくない、と言う人が圧倒的に多くなった、と言う気がしますね。ですから、この様な状況に合わせた「気配り」が必要になっている、と言うのが現状の様に思われますね。
また、会社では、上司から部下への業務上の指揮、命令は、会社の運営上、致し方ないと言う考え方が一般的の様ですね。
しかし、上司から部下への業務上の指揮、命令の場面においても、会社の業務とは別に、本来の人間関係が存在しているでしょうから、場合によっては、ここに摩擦が発生する事があるわけでしょうね。
常日頃の個人的な付き合い、特に、いわゆる個人的な相性が存在するでしようから、それが、上司から部下への業務上の指揮・命令の場面に、時に、あれこれと影響をもたらす事があるでしょうね。
会社においては、組織上のグレードを廃止しては、業務運営上、具合が良くないのでしょうね。おそらく会社が、その業務上の目的を達成させるためには、その指揮系統をキチンと整えておく必要があると言うことなのでしょうね。
一般的には、会長・社長、専務・常務、部長、課長、係長、係と言うヒエラルヒーが形成されている場合が多いのでしょうね。今は、思考の多様化に伴って、かなり新たな形態へ変化している会社も多くなって来ている傾向も強い様ですが。
経営者側は、目的を設定し、その達成を期して、ヒエラルヒーの上部から下部へと指揮・命令を下すのが一般的の様ですね。これが、スムーズに運べは、経営者の目的が達成されて行くことになるのでしょう。ここにおいて、この指揮・命令がスムーズに進行するかどうか、と言うことが重要性を持つ事になりますね。この時に、「気配り」が必要になってくるのでしょうね。
すなわち、近年は、社会全体で、平等が強く叫ばれていますから、上司から部下へ指揮・命令の場面においても、上から下への一方的な指揮・命令が、しばしば問題化する傾向にある様です。
すなわち、日本社会では、特に、会社では、長い間、上司優越の状態が続けられて来ているでしょうから、
この指揮・命令の仕方が、受ける側にとって、気分を害される場合がよくある様ですね。
これが、近時、ハラスメントの主張が、社会の上表で大いに叫ばれる様になって、時に心ない上司の指揮・命令に対して、それはパワハラですよ、と言う指摘がなされることがままある様です。ここにトラブル発生と言うことになる訳です。
会社における指揮・命令がどの様に行われているのか、現場での調査をした事が有りませんので、具体的にはよくは存じませんが、例えば、ハラスメントに敏感なテレビの話題やドラマ等に強く反映している様に思われます。それは、〇〇ハラスメントだ、と指摘する場面をよく目にしますよね。
すなわち、「ハラスメント主張時代」の到来によって、この上司から部下への指揮・命令の場において、ことさらの「気配り」がより一層重視されることになって来ている様ですね。
ハラスメントと言う事が、社会で大きく取り上げられる様になってから、未だあまり時を経ていないと言ってよいでしょう。まだ、ハラスメントと言うことに、十分慣れていない状況と言ってよいのではないでしょうか。これから、どの様な事に気をつけなくてはならないのか、段々慣れていくことでしょうが、当面、この点に関する「気配り」が、必要とされることでしょうね。
とにかく、上司から上から目線で、指揮・命令されると、受ける側からすれば、業務内容はともかく、そんな言い方をしなくてもいいだろうに、なんて言う心情が湧いてくる場合は良くあるでしょうね。
要するに、指揮・命令を行う時には、される方の心情に配慮する必要があると言う事で、ここでの「気配り」が実に大切な事なのでしょうね。
具体的には、先ずは言葉遣いでしょうね。
会社を離れて、一般社会でも、実に、言葉遣いについての「気配り」が、一般的となっているでしょうね。日本では、儒教的な影響でしようか、言葉遣いが、かなり煩(うるさ)く言われてきました。
例えば、今は伝達方法としては、もっぱらメールによっているのでしょうね。実に単純な文面で、時に、絵文字一つで済ませることも多い様で。これが、お年を召した方のメールは長文ですよ。時候の挨拶、近況報告など、一通り書かなくては、落ち着かない様ですね。やはり、絵文字一つでは、失礼に当たると思われるのでしょうね。
だいたい、手紙をあまり書かない様になってきましたね。メールに慣れちゃうと、きちんとした文章を書くのが、面倒になりますね。
手紙の結語なども色々ありましたね。敬具とか早々は一般的なのでしょうが、昔はややっこしいのがあった様ですよ。
ちょっと畏(かしこ)まった場合には、謹言とか敬白とかね。もっと畏まった場合には、恐々謹言、恐惶謹言、頓首謹言とかね。
誰かに大事な事を頼む場合に、手紙の結語には気をつけなくてはならなかった様です。
単に謹言なんて言うのでは、うまくなかった様で。あっさり断られてしまい、コリャーいかんと言う事で、再度、恐々謹言とやったところ、これまた断られてしまい、それではと言う事で、恐々恐惶頓首謹言と、もう恐れ平伏して頭を地面にめり込ませんばかりにして御頼み申し上げます、とやったところ、漸く引き受けてもらえる事になったりしましてね。三顧の礼と言うのでしょうかね。お偉い方の場合は、一度や二度頼みに来たからといって、そうそう簡単に引き受けませんよ。と言う様な場合の手紙の結語は、この様ばかっ丁寧にしなくてはならなかった様で。とにかく、偉い方に願い事をする場合には、これが当たり前のこととされていた様ですね。すなわち、場合によっては、手紙の結語にもこの様な「気配り」が必要とされていたのですね。
くれぐれも「頓首」を「豚首」と書き違えない様に。間違えると、そりゃーえらいことになり兼ませんよ。
他人に何かを伝える場合、とにかく言葉遣いに「気配り」しなくてはなりませんね。
具体的には、例えば、敬語、丁寧語の類を適切に使えるかどうか、と言う事ですね。かなり厄介な事ですね。なんでも「御」を着けりゃーいいんだよ、と仰(おっしゃわ)られる「御」方がおられますよね。特にお料理の先生に顕著にお見受け致しますね。
「お御飯を、お茶碗に、お盛りになられて、お出し下さいませ。」なんてね。さすがに、これは極端でしょうが、何だか「お・御」の大安売りみたいで、かえって、耳障りになっちゃったりしましてね。「お御飯」なんぞ、「御」の字の二階建てですからねー。
まー、ほどほどにしませんとねー。あまり行き過ぎると慇懃無礼になってしまっては、逆効果ですからね。
私ゴトで恐縮ですが、私はタメ口で来られても、大して気にしませんね。問題は話の内容です。内容は、大いに気にかかりますが、今時、タメ口を気に掛けていては、他人と話が出来ないくらいに思いますね。タメ口の当人は、タメ口の自覚が御座いませんからね。それをいちいち咎めても、仕方が無いのですよね。そんな事しようものなら、肝心の話の内容が、どこかへ飛んで行ってしまいますからね。
タメ口には、こっちもタメ口、と言う「気配り」をしなくてはね。礼儀に反しますよ。これが今時の平等というものなのでしょうからね。キット。
と言う事でして、「気配り」は、まず、言葉遣いに気を付けなければならない様です。
当然、言葉遣いだけでは御座いません。態度・行動は申すまでも御座いませんね。また、その環境を常に念頭に置いておかなくてはならない様ですね。上司が、部下に注意したり、叱ったりする時、人前では行わず、人目につかないところで秘かに行うと言う気遣いが必要とか。物事をゾンザイにやると、他人を傷付けたり不快にしたりしますから、気を付けなくてはなりませんね。すぐに、ハラスメントどうのこうのと、なり兼ねない今時でしょうからね。この様な幅広い「気配り」がね、必要の様ですなー。
要するに、身の回りの事柄全般に、配慮しなくてはいけませんからね。これは、中々骨の折れる事です。
いっその事、「気配り」を止めてしまった方が、かえって、お互いに気楽なのでは、と言うことにもなりそうですね。
要するに、程度の問題と言うことなのでしょう。まーあまりゾンザイに扱われると、不快を感ずることは有り勝ちですね。かと行って、度を越したばかっ丁寧は、かえって他人を不快にしたりしますからね。慇懃無礼だと言う事になっては、「気配り」の範疇を越してしまいますからね。他人行儀も度を過ぎるとね、しっくりこなくなりますからね。万事、ほどほどと言う事なのでしょうね。と言いつつ、このほどほどが、実は曲者なので、難儀なのですよね。
とにかく、「ハラスメント主張時代」を乗り切るためには、常日頃からの周辺に対する「気配り」の訓練が大事な様ですね。何がハラスメントに該当するのか、中には新たなハラスメント開発に専念しておられるお方も、まま見受けられる様な事も珍しくないですよね。これもサイドを変えてみれば、その様なハラスメント主張が、そもそもハラスメントではありませんか、と言うことにもなったりしましてね。やはり、適切に、ほどほどにと言うことが、大事なのでしょが。このほどほどが、それぞれの個体差があるでしょうから、難しいところが御座いますね。
そもそもは、精神的に、被害を受けた人の救済対策として、「ハラスメント主張時代」が形成されて来たわけでしょうから、ハラスメントを受けたとする側の認識がどうか、と言う事が問題となるのでしょうね。
当然、個体差が見られる事ですから、その判断が難しい場合があるでしょう。
例えば、Aという人が10人を対象として、ある行為を行なった。その結果、9人は特にハラスメントを受けたとは感じなかった。しかし、1人がハラスメントを受けたと感じた場合、Aの行為がハラスメントに該当するか否か、と言う事になると、民主的と言われる多数決による手法に基づけば、一般的には、Aの行為はハラスメントに当たらない、と言う事に判断されるのでしょうね。
しかし、視点を変えれば、たとえ1人であっても、ハラスメントを受けたと感じた人がいた場合、Aの行為は、果たしてハラスメントに該当しないのか、と言うと、現状の多くの場合は、そうはいかないと認識とされる方が多いのではないのでしょうか。これは、小生の独偏(独断と偏見の略語)でしょうか。
そもそもが、被害を受けた人の救済対策として、「ハラスメント主張時代」が形成されてきた経緯からすれば、たとえ1人でもハラスメントを受けたと感じた人がいた場合は、Aの行為を全面的に正当化されるのは、難しいと言う事になるのではないでしょうか。
要するに、ハラスメント事件を多数決で決着をつけて良いか、と言う基本的な問題があるのでしょうね。そもそもハラスメントを多数決で是非を決めると言うのは、問題の性格上、あまり相応しくないのではないのでしょうかね。とにかく、難解なところが御座いますね。
色々な側面に「気配り」が必要なことは、確かな事でしょうね。気疲れするご時世ですなー。
と言いつつ、毎度の様に、ただただダラダラと長話になってしまいました。これではダメだ、と言う点に「気配り」が必要ですね。やっばり、最初に申し上げてあった様に、この種の話は、難しー。小生には不向きでんなー。もうちょっと、軽い単純なテーマがいいですよね。と言う事に気が付いたら、さっさと止めるのが、「停念堂閑記」の特徴ですから、直ちに止めます。
ただし、こちらの都合による一方的なことで申し訳御座いませんが、けっこうヒマ潰しにはなりました。こちらはまあまあ成功で御座います。
失礼をばい致しました。それにしても、面白みの全く感じられない話でしたなー。きっと、生真面目が災いしてますなー。えてして、真面目は面白みが御座いませんよ。ホンマ。
やっばり。「停念堂閑記」は、おチャラけなくてはねー。ひたすら反省ですわ。
無駄な時間を過ごさせてしまった様で、申し訳次第も御座いません。反省、反省。次回は、なんとかしなくては。
どうも、お疲れ様で御座いました。懲りずに、またのお越しを、お待ち申し上げます。
お後がよろしい様で。