「停念堂閑記」162

《停念堂閑記》162

    

「気配りの時代」

  

ようこそ、「停念堂閑記」へ。

よくお越し下さいました。厚く御礼申し上げます。

よほどおヒマなのでしょうか。他に行く所が無いのですか ? 

失敬、失敬。とんでも御座いません。ご多忙の中「停念堂閑記」をお開き頂きまして、誠に有難う御座います。どうぞ、ごゆるりと、ヒマ潰しをなさって下さいませ。 

早速、恐縮で御座いますが、ここでの話は、相も変わらぬ、毎度毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う、略して「アバク」の三要素を兼ね備えた、行き当たりバッタリの、底、奥行きのメッチャ浅い、要するにヌケ ? な話です。 すみません、マが抜けてしまいました。まさに、マヌケな話で御座います。

と言う事でして、あまり期待をなさらないで下さいね。

そんな事、元よりしていないってですか ?

アノー、ですね。日本には、忖度(相手の気持ちを考慮すること)と言う文化があるのですよ。自分はさて置き、まずは相手を気遣うと言う、なんと麗しい(?)文化では御座いませんか。

ところが、現在は、忖度すると言うのが、いけない事の意味合いに感ずる方(かた)が多い様に見受けられますなー。おそらく、政治の場において、かつて権力者に対する忖度が際立ち、弱者側に目を向けない場合が多く見られた所為(せい)ですかね。それで、一般的に忖度すること自体、歓迎されないことが、多くなった、と感ずるのは、小生の独偏(独断と偏見の略語)でしょうか。

特に、今時の若者は、時に、忖度を敬遠する傾向があるように見受けられますが、ところが 一方では “場の空気を読めよ” なんて事をよくおっしゃっているのをよく耳にしますなー。マー、その時々の感情優先と言うことなのでしょうかねー。

しかし、日比憐休のマヌケな話とは申せ、多少の取柄もございますよ。それは、決して深刻にならないところです。夜、眠れなくなったりしませんからね。

かつて、春日三球・照代さんと言う漫才師がおられまして、地下鉄の車両がどのようにして地下の線路に入れられたのかを考えると、夜も眠れなくなる、と言うネタで、結構受けていた事があったのですよ。蛇足ながら、若者諸氏へ。

ここでの「アバク」な話は、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

ただし、生真面目な(?)ところが、唯一、トビッキリの取柄(?)なんですよ。

ホンマかいな。どこが、真面目なんや ? ってですか。

たとえトンマなフザケタ話でも、真面目に取り組まなくてはいけませんよ。とにかく人間不真面目はいけません。

たとえ、ここでの話の真の目的が、単なるヒマ潰しでもね。 

なんちゅったって、真面目にヒマを潰さなくてはならないのですよ。ふざけていてはいけませんよ。ふざけるのは、話だけにして下さいませ。とにかく何をおいても真面目に、真摯にヒマ潰しに取り組まなくてはね。人の道に悖(もと)りますよ。

あるお方が申しておられました。

ヒマ潰しにやることは、須(すべか)らくアホくさいものだと。

これは真実ですよ。キット。

毎度毎度の《停念堂閑記》がそれを如実に証明しておりますからね。科学的な論拠です。

《停念堂閑記》が科学の範疇か ???  

さて、定年後の御同輩、きっと、持て余しているのでは。

毎日のヒマを。

お互いに、持て余しているヒマを、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ならないのですよ。これがリタイア後の最大の課題ですからね。当然、真面目にですよ。

しかしですね。これは、これで、なかなか、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙掛らなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

そうです。その通り。至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。 

と言うことで、本日も張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

どうです。この生真面目な姿勢。どこを切っても生真面目の金太郎飴。この真摯な生き方こそ、リタイア後のヒマ潰しのあるべき理想の姿とはお思いになりませんか。

アホカッ ! って。

ヌッ! 思わない! 

それはそれで、結構で御座いますよ。忖度は不要です。まー、好みは、人それぞれですからね。それで良いのですよ。キット。ぜったいに、負け惜しみでは御座いませんよ。ホント。

なお、はじめに、謝っておきます。この超猛暑の中、一所懸命お働きの皆様、ふざけた話で、申し訳御座いません。どうぞ、ご勘弁の程を、お願い申し上げます。

それでは、参ります。

 

打倒! ヒマーッ!

エイエイ オー! A A O!  

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声でんなー。

情けねー! トホホ・・・・・

 

今回も、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う「アバク3原則」を踏まえて、なんと途轍もない有意義 (?) な話をしようと思うのですよ。思うのは自由ですからね。自由はいいね。あれこれ制約されたら、たまりませんね。日常生活が楽しくなくなりますからね。ですからね。制約は、出来うる限り無い方が良いですね。なんでも、する前に、まず、規制をと言うのは、感心しませんね。

ところで、前以てお断りしておきますが、有意義(?) な話は、往々にして、全然面白味が御座いませんよ。決して、ウソは申しません。この点は、トクト心しておいて下さいませ。絶対に面白くないですからね。

サー、面白くない話で、思いっきり凹(へこ)み下(さ)がりましょう(「盛り上がり」の反対のつもりです。)。もしも、多少とも、面白いと感じた場合は、めったにないめっけものと思って下さいませ。おそらくダメだと思いますが。でも、手違いが生じたりすることが、ないわけでは御座いませんから。タマーニ、間違えて面白い事を書いちゃったりする事があるかも知れませんよ。ないと思うけどね。

 

さて、ここでの話は、今言ったばかりですが、、有意義(?) な話で御座います。実は、有意義かどうかは、それぞれ人によって異なりますよ。AさんとBさんでは、全く価値観が違う場合がありますからね。と言うよりは、細かく見ると、一人一人みんな違いがありますからね。価値観が同じと言う方が、珍しいですよ。価値観が同じなんて言うのは、きっと良い加減な大雑把な話をする時ですね。

皆んなそれぞれ個性が異なりますからね。結婚して間も無く、連合いと価値観が違うと言って、離婚する人がいますが、えらい勘違いをしていたのでしょうね。価値観なんて、何につけゼーンブ同じなんて言うことは、無いですよ。恋愛の最中に、おんなじー!、なんて思ったのは、単なるその時の極めて狭い部分についてのことで、なんでもと言うのは、全くの勘違いと言うものですよ。一人一人異うのですよ。これは、よく心得ておかなくてはなりませんよ。結婚して、たまーに、あっ、これは意見が一致したわ、という事が万が一あったなら、わーい、同じ同じと言って、大いに喜び合えばいいのですよ。大体は、何処か違うことを感じたり、考えたりしているものですからね。結婚生活なんて、同じ価値観に遭遇することを期待しての、それは頗る厄介なメチャクチャ難儀な遠い遠い道程なのですからね。ナンチャッテ。

どうです。なんて有意義なことを言っているのでしょうかネー。これでモー迂闊に結婚したり、離婚したりする人が、いなくなりますからね。実に、なんと有意義な意見では御座いませんか。

 

ヌッ ! 

 「停念堂閑記」は、これでいいのか ?  

ナンカ、違うな。「停念堂閑記」は、こんなこと言っていては、ダメだね。「アバク」に徹しなくては。昨夜は暑苦しくて、完全に寝不足だから、頭の回転が何処かおかしいな。通常に増して、すこぶるヘンテコリンだぞ。よし冷たい物でも飲んで、正常を取り直すか。

 

冷たいカルピスは美味いねー。初恋の味! なんて言ったもんだね。若者様には、通じないかもなー。(長期にわたるカルピスのコマーシャルです)。

ハッ!

何を言ってるんだ。「停念堂閑記」だぞ。寝ぼけ頭は、冷たいものくらいでは、回復しないな。弱ったね。

全く。なんたって、「アバク」な話を作らねば、意味がないな。前回は、無鉄砲にも、無理やり「無鉄砲」の話で押し通したなー。今回は、どうしたものかなー。トビッキリ有意義な話でなくてはなんねーな。

行き当たりバッタリで、手頃な話のネタに巡り会えるか。そー簡単ではないぞ。

しばし、考えなくてはねー。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ~

 

オット、ソーダ !  

ナヌ !  カルピスの次は、ソーダか。

違いますよ。違いますよ。閃いたの。

 

 「気配り」だ !

これだね。今回は、「気配り」で行こう。

とは言え、こういう漠然としたのは、難しいな。こう言うのは、あたしゃーあまり得意じゃーねーな。と言うより、苦手と言った方が正解ですな。

どーしてかと言うと、理由はいたって明瞭簡単。私ゃー、「気配り」が、トント駄目人間なんですだよ。早い話が、配ろうにも配るほどの気を持ち合わせないのですだよ。ちょこっと配ったら、もー底をつく。お終いだ。弱ったねー。

 

そもそも「気配り」って、どう言う意味なのだ。普段、疑問を持たず、使ったりしているが、わざわざ調べたことがないね。なにで調べるかね。

困った時には、神頼みと言うけれど、今まで、何度もおねげーしたことがあるけれど、一度も神様が助けてくれた試しがねーな。「気配り」とは、こう言うことさと、教えてくれる神様がいるかーね。

アホか。いるわけないよ。そんなことがあったら、時化に・テストなんぞ、意味なくなっちゃうよ。

頼むだけムタだね。最近は、もー諦めちゃって、頼まないけどね。

今時は、やっぱりネットだね。困ったときのネット頼みだね。時々、あてにならないことも、多々あるけれど、今時は、取り敢えずまずネットだね。

 

「気配り」。ハイ、検索と。オット、出ましたよ、出ましたよ。

 

き‐くばり【気配】

[名](スル) あれこれ気を使うこと。手抜かりがないように注意すること。心づかい。配慮

だって。

 

念のために、『広辞苑』に当たってみるか。疑り深い性分だからね。

サー、『広辞苑』、『広辞苑』と。オット、相変わらず重たいね。『広辞苑』と付き合うには、筋トレが必要だね。マッタク。

サーテ、「気配り」、「気配り」と。どうでも良いけど、文字が小さいね。『広辞苑』の友が必要になるね。虫眼鏡、虫眼鏡と。老眼鏡では間に合わねーだよ。手間かかるねー。マッタク。

さてと、

 

き・くばり〔気配り〕   不都合・失敗がないように、あれこれと気をつけること。

 

だってさ。

 

疑り深いからね。もう一つ行っておくか。『日本語大辞典』では、

 

きくばり〔気配り〕 細かに気を使うこと。心づかい。

 

だって。

 

ことはついでだから、もう一つ行ってみるか。手軽に使える『新明解国語辞典』では、

 

きくばり〔気配り〕  まちがいや失敗のないように、細かい所まで注意を行き届かせること。

 

とありますよ。

 

更にもう一つ行っておくか。シツコイね。マッタク。『新潮国語辞典』には、

 

キ くばり 〔気配(り)〕 方々に注意すること。心配。

だって。

 

まー、こう言う事ですよね。

各辞典の編纂方針・解説者によって、若干の違いが見られますなー。差がある様にも、ない様にも、微妙様なところも見られますかねー。まー、結局は、読む人が、どう解釈するかによるところがあるかも知れない、と言うところでしょうかね。

なお、分かりきった余計なお世話でございますが、『新潮国語辞典』の「方々に注意すること。心配。」の「注意」は、「○○をしてはいけませんよ」と言う意味では御座いませんね。また「心配」は「しんぱい」ではなく、「こころくばり」ですね。『新潮国語辞典』では、送り仮名を付けない編纂方針の様ですよ。蛇足ながら。僅かながらのヒマ潰しまで。

さて、甚だ僭越では御座いますが、日比憐休と致しましては、要するに、「気配り」と言うのは、置かれている環境で、万事手抜かりがないように配慮すること、と言うくらいの意味合いに思われます。このくらいでどうでしょうか。

と言うことで、この場をトットと行き過ごしたいところですが、どっこい、「停念堂閑記」としては、さっさと行き過ごしては、具合が良くない事情と言うものが存在するので御座いますよ。ここでは、一応、あれこれと時間をかけなくては、ヒマ潰しと言う観点からは、ハイ、これでお終い、と言うのは、具合が良くないわけですよ。

と言うことで、愚にもつかない事をあれこれ考えなくてはならない事情と言うものがあるのですだよ。

てなことで、何か考えなくてはねー。

とは言え、行き当たりばったりで、そうそう上手く行くとは、到底思われませんよ。ただ「停念堂閑記」では、幸い上手下手には、全く気を使わなくて良い、と言うことにしてあるのですよ。上手下手の気遣い一切無用。すなわち、出来不出来には、一切「気配り」しなくて良いのですだよ。何でも気楽に行ける、と言う設定になっているのですよ。ズルっこいでしょう。実にそうなんで御座いますよ。渡る世間は、万事要領と言うではありませんか。と言っても、こんなヒマ潰しをしている様では、あまり要領が良いとは言えねーな。と自分自身に言い聞かせなくてはねー。骨が折れますよ。マッタク。脳みそが骨折しそうですわ。脳に骨があるかってですか。骨が折れることが、すなわち骨折と言う事ですだよ。

オット、ソーダ。脳にも、骨があるのですだよ。知りませんでしたか。人が死亡すると、火葬された後、これを預かってくれるところが、あるのですよ。もう分かってますよね。そうです。納骨堂ですよ。ここで怒ってはいけませんよ。オー、ノーと軽く笑いとぱして下さいませ。それにしても、なんともクラシックなダジャレでんなー。我ながら、実に嫌になっちまいますなー。オーノー !

 

さて、一般的に、信頼度が最も高い辞典の一つとされている『広辞苑』の「き・くばり〔気配り〕   不都合・失敗がないように、あれこれと気をつけること。」では、取り敢えず、「不都合・失敗」つぁー何だ、なんて余計なことを気にしなくてはならなくなったりしましてね。ちょっと、厄介な気がしますね。不都合・失敗なんぞは、その個人によって、事情が異なりますからね。とナングセをつけたところで、『広辞苑』の解説が間違っていると言うことでは、全く御座いませんよ。要は、「停念堂閑記」における第一の目的は、ヒマ潰しでありますから、とりあえずは、時間稼ぎ、時間稼ぎですから、勘弁して下さいませ。

さー、この解説をどの様に、ヒマ潰しに持って行けば良いのですかねー。

何か、取っ掛かりはないものですかね。

「気配りする」となれば、一般的状況として、気を配る主体が存在するわけですね。そしてまた、気を配られる対象が存在するわけですね。ひっくり返して言えば、気を配られる対象が存在し、気を配る主体が存在する、と言う状況ですよね。

しつっこい !  ひっくり返す必要がどこにあるか、ですよね。どこかに、ないものですかねー。

弱ったね。しかし、ここはなんとかしなくてはねー。ヒマ潰しも中々ゆるくないですなー。

はてさて、「気配りする」と言う行為は、その行為をする主体と、その行為を受ける側が存在すると言う事ですなー。

 

要するに、「気配りする」のは、その主体側の行為と言うことになるでしょうから、不都合、失敗は、その主体側からの判断と言うことになるでしょうから、要するに、気配りする主体にとって、不都合か、失敗か、と言うことです。ですから、『広辞苑』の解説は、この観点からすれば、何の問題も御座いませんよね。と言うことになりますよ。これで、ここは一件落着と言うことですわ。めでたしめでたし。結局は、なんの面白みのないヒマ潰しでんなー。申し訳ございません。

 

さて、面白くないヒマ潰し話は、なおも続きますよ。

ところで、いくらヒマ潰しとはいえ、なんで今時「気配り」なんてことに、引っかかったのか、と言いますと、色々と各個々人に違いがあることは、当然のことと思われますが、日比憐休と致しましては、現今の社会において、この「気配り」に、ことさら気を配っておられる方が、かなり目に付くのですよ。

より分かり易く言えば、普段の社会生活上、「気配り」が必要だ、「気配り」が大切だ、「気配り」しなくてはダメ、と思ってらっしゃる方が、実に多数おられるように、お見受けするのですよ。

要するに、近時、「気配り」云々と言うことが、あちこちで、大いに取りざたされている様に感じられるのですよ。独偏(独断と偏見の略語)、独偏ですよ。

すなわち、いつの時代にも、渡世上「気配り」は必要と思われてきましたが、現今社会では、それが、極めて重要視されているのでは、と言うことなのですよ。今の社会の一つの特質と言って良いのでは、と思えるのですよ。

 

すなわち、この原因の一つは、今時何かある度に、とかく「ハラスメント」が叫ばれることが多くなったと感じられるのですよ。まさに、「ハラスメント主張時代」到来の感がありませんか。

要するに、「ハラスメント」に、以前よりはことさら「気配り」しないと、ちょっとし事と思われて来た事が、ど偉いことになりかねない、と言う時代が到来したのですよ。

一番困るのは、どの様な事が「ハラスメント」となるのかどうか、まだまだ具体的には、認知されていない、と言うことではないのでしょうか。段々慣れてくるでしょうが、しかし、まだ、とっさに判断できなくて、失敗する恐れが、とにかく心配されるのですよね。時を経るに連れて、関係の法令もより整えられ、関係する判例も増加するでしょうから、時間が経つに連れて、要領よくやる事が出来る様になるとは思われますが。まだ、馴染んでいないと思われますね。

 

社会は他人との関係無しに、成立しませんから、どこかで誰かと、何らかの関係が生じているわけで、その事情により、「気配り」云々と言うことが発生する訳でしょうね。

例えば、家庭内ではどうかと言いますと、親子関係、夫婦関係が存在しますね。ここにおいて、以前より、最近は、「気配り」の必要がより重視される様になって来た様に感じられませんか。

例えば、欧米では、夫が妻に、頃合いを見計らって、アイラブユーと囁くことが、日常生活の習慣となっている様ですな。この囁きを怠ると、場合によっては、ややこしい事態へと発展し兼ない場合もなくはない様で御座いますね。

日本では、日常生活におけるこのような習慣は、一般的には御座いませんでした。明治になって、欧米の文化が盛んに取り入れられましたが、夫とから妻への日常におけるアイラブユー文化は、ほとんど定着しなかった様です。

夏目漱石のところへ、一人の学生が来て、アイラブユーをどの様に翻訳したら良いかを尋ねたそうで。

そうしたら漱石先生は、日本では直訳の「私は貴方を愛してます。」は、馴染んでいないから、この場合「月が綺麗だね」と言うくらいが、良いのでは、と教えたそうだ。と言う話を聞いたことがあります。

さすが文豪ですね。これが日本的なアイラブユーと言うことなのですねー。

ところが、この話を耳にした、いわゆるオッチョコ系の御仁が、彼女を誘ってデートの時に、ここぞと言う場面で、「月が綺麗だね」とやったところ、彼女さんに見事振られちゃったと言うのですよ。

「なに馬鹿なことを言ってるのよ。今日は闇夜だよ。」だって。

はたまた、不慣れな夫が意を決して、妻に「月が綺麗だね。」とやったところ、「なに寝ぼけてるのさ、真昼間に。どこに月が見えるのよ。」と一蹴されちゃったんだってさ。なさけねー。

やはり時と場所柄を考慮しなくてはね。

と言うことで、ケースバイケースで、幾通りもの殺し文句を用意しておく必要がある様です。

 

という様に、日本では、アイラブユー文化は、なかなか定着し難い様ですね。

夫側からすれば、そんなこといちいち口にしなくても、分かっていることではないか、という言い分が、多分過去長い間続いて来ている様に思われますね。

しかし、最近は、口に出して言ってもらわないと、分からないよ、納得できないよ、と言うご婦人側の主張が、強くなって来ている御時世の様です。

また、アイラブユーは、夫が妻に適宜囁かなければならないのかと言うと、男女平等の見地からすれば、妻から夫にも囁かなくてはならないと言うことになりはしませんかね。

これも過去を振り返れば、日本社会でには、あまり一般的ではなかった様に思われますね。これについては、専門的見地から調査したことが御座いませんので、全くの独偏(独断と偏見の略語)ですが。

しかし、日常生活において、妻からその様なことを言われたことがない、妻からも日常的に言うべきだ、と騒ぎ立てた夫はあまり見聞きしたことが御座いませんね。過去の日本社会では、その様なことで騒ぎ立てることは、男として、とてつもなくカッコ悪い事と、認識されがちだったのではないのでしょうかね。と言うか、要は、その必要を殆ど感じていなかったのではないのでしょうかね。男としては、アイラブユーと言われるよりも、凛々しく、真面目で、仕事が良くできて、収入も多く、社会的地位も得られていて、言動も正しく、スホーツも良く出来て、頼もしいわ、頼り甲斐がある、カッコいい、立派だなどと言われた方が、多分アイラブユーより嬉しかったのではないのでしょうかね。独偏(独断と偏見の略語)ですが。

多分、毎週教会へ出かけ、キリスト教の教えに基づく日常生活を送って来ている欧米とは異なり、主に儒教や仏教の教えに基づく日常生活を長期にわたり送って来た日本の社会では、アイラブユー文化は、定着しずらかったのではないのでしょうね。孔子様は、男女関係、夫婦関係のあり方について、まり論究はなさらなかった様ですね。

流石の孔子様も、「子曰(のたま)わく、月が綺麗だね。」、とは、なかなかやりにくかったのではないのでしょうかね。

朱子学では、主従関係が、強く主張されましたから、その範疇で男女・夫婦間の関係が形成されたのでしょうね。それが、時代の進化に伴い、どんどん国際的な交流がより盛んになって、欧米式の文化に影響されることが多くなって来て、朱子学的文化が後退して来ている、と言うことなのかも知れませんね。特に、こよなく平等を叫ぶ人々が多くなって来て、社会における人間関係の部分においても、これまでと別の新たな「気配り」が必要となって来た、と言うことの様に、感じられるのですが。全くの個人的な独偏(独断と偏見の略語)ですが。

子供との関係でも、親が子供に何か用事を頼んだ場合、それは当然子供がきくのがあたり前と言うのではなく、兎に角、家族内であっても、何かをしてもらったら、いちいち丁寧に、謝辞を述べなくてはダメ、と言うのが最近の傾向ではないでしょうか。テレビドラマなどでも、この様な場面が、実に多く見られる様になりましたね。したがって、この様な場面での「気配り」が、当たり前となって来ている現状なのでしょうね。

これが、家族から離れて、会社、学校、隣近所など一般社会における人間関係においても、強く求められる場合がある様ですね。

一般社会においては、例えば、隣近所の人付き合いは、むしろ適当に距離を置いた、どちらかと言えば、ほどほど希薄な関係を好む様になった気がしますね。要するに、独偏(独断と偏見の略語)では、従前の「気配り」がどちらかとう言うと、いわばお節介の方向で行われ勝ちだった様な気がするのですが、近時は、他人にはお節介な口出しはしない方が良い。また、自分のことについても、余計な口出しをされたくない、と言う人が圧倒的に多くなった、と言う気がしますね。ですから、この様な状況に合わせた「気配り」が必要になっている、と言うのが現状の様に思われますね。

また、会社では、上司から部下への業務上の指揮、命令は、会社の運営上、致し方ないと言う考え方が一般的の様ですね。

しかし、上司から部下への業務上の指揮、命令の場面においても、会社の業務とは別に、本来の人間関係が存在しているでしょうから、場合によっては、ここに摩擦が発生する事があるわけでしょうね。

常日頃の個人的な付き合い、特に、いわゆる個人的な相性が存在するでしようから、それが、上司から部下への業務上の指揮・命令の場面に、時に、あれこれと影響をもたらす事があるでしょうね。

会社においては、組織上のグレードを廃止しては、業務運営上、具合が良くないのでしょうね。おそらく会社が、その業務上の目的を達成させるためには、その指揮系統をキチンと整えておく必要があると言うことなのでしょうね。

一般的には、会長・社長、専務・常務、部長、課長、係長、係と言うヒエラルヒーが形成されている場合が多いのでしょうね。今は、思考の多様化に伴って、かなり新たな形態へ変化している会社も多くなって来ている傾向も強い様ですが。

 

経営者側は、目的を設定し、その達成を期して、ヒエラルヒーの上部から下部へと指揮・命令を下すのが一般的の様ですね。これが、スムーズに運べは、経営者の目的が達成されて行くことになるのでしょう。ここにおいて、この指揮・命令がスムーズに進行するかどうか、と言うことが重要性を持つ事になりますね。この時に、「気配り」が必要になってくるのでしょうね。

すなわち、近年は、社会全体で、平等が強く叫ばれていますから、上司から部下へ指揮・命令の場面においても、上から下への一方的な指揮・命令が、しばしば問題化する傾向にある様です。

すなわち、日本社会では、特に、会社では、長い間、上司優越の状態が続けられて来ているでしょうから、

この指揮・命令の仕方が、受ける側にとって、気分を害される場合がよくある様ですね。

 

これが、近時、ハラスメントの主張が、社会の上表で大いに叫ばれる様になって、時に心ない上司の指揮・命令に対して、それはパワハラですよ、と言う指摘がなされることがままある様です。ここにトラブル発生と言うことになる訳です。

会社における指揮・命令がどの様に行われているのか、現場での調査をした事が有りませんので、具体的にはよくは存じませんが、例えば、ハラスメントに敏感なテレビの話題やドラマ等に強く反映している様に思われます。それは、〇〇ハラスメントだ、と指摘する場面をよく目にしますよね。

すなわち、「ハラスメント主張時代」の到来によって、この上司から部下への指揮・命令の場において、ことさらの「気配り」がより一層重視されることになって来ている様ですね。

ハラスメントと言う事が、社会で大きく取り上げられる様になってから、未だあまり時を経ていないと言ってよいでしょう。まだ、ハラスメントと言うことに、十分慣れていない状況と言ってよいのではないでしょうか。これから、どの様な事に気をつけなくてはならないのか、段々慣れていくことでしょうが、当面、この点に関する「気配り」が、必要とされることでしょうね。

とにかく、上司から上から目線で、指揮・命令されると、受ける側からすれば、業務内容はともかく、そんな言い方をしなくてもいいだろうに、なんて言う心情が湧いてくる場合は良くあるでしょうね。

要するに、指揮・命令を行う時には、される方の心情に配慮する必要があると言う事で、ここでの「気配り」が実に大切な事なのでしょうね。

具体的には、先ずは言葉遣いでしょうね。

会社を離れて、一般社会でも、実に、言葉遣いについての「気配り」が、一般的となっているでしょうね。日本では、儒教的な影響でしようか、言葉遣いが、かなり煩(うるさ)く言われてきました。

例えば、今は伝達方法としては、もっぱらメールによっているのでしょうね。実に単純な文面で、時に、絵文字一つで済ませることも多い様で。これが、お年を召した方のメールは長文ですよ。時候の挨拶、近況報告など、一通り書かなくては、落ち着かない様ですね。やはり、絵文字一つでは、失礼に当たると思われるのでしょうね。

だいたい、手紙をあまり書かない様になってきましたね。メールに慣れちゃうと、きちんとした文章を書くのが、面倒になりますね。

手紙の結語なども色々ありましたね。敬具とか早々は一般的なのでしょうが、昔はややっこしいのがあった様ですよ。

ちょっと畏(かしこ)まった場合には、謹言とか敬白とかね。もっと畏まった場合には、恐々謹言、恐惶謹言、頓首謹言とかね。

誰かに大事な事を頼む場合に、手紙の結語には気をつけなくてはならなかった様です。

単に謹言なんて言うのでは、うまくなかった様で。あっさり断られてしまい、コリャーいかんと言う事で、再度、恐々謹言とやったところ、これまた断られてしまい、それではと言う事で、恐々恐惶頓首謹言と、もう恐れ平伏して頭を地面にめり込ませんばかりにして御頼み申し上げます、とやったところ、漸く引き受けてもらえる事になったりしましてね。三顧の礼と言うのでしょうかね。お偉い方の場合は、一度や二度頼みに来たからといって、そうそう簡単に引き受けませんよ。と言う様な場合の手紙の結語は、この様ばかっ丁寧にしなくてはならなかった様で。とにかく、偉い方に願い事をする場合には、これが当たり前のこととされていた様ですね。すなわち、場合によっては、手紙の結語にもこの様な「気配り」が必要とされていたのですね。

くれぐれも「頓首」を「豚首」と書き違えない様に。間違えると、そりゃーえらいことになり兼ませんよ。

 

他人に何かを伝える場合、とにかく言葉遣いに「気配り」しなくてはなりませんね。

具体的には、例えば、敬語、丁寧語の類を適切に使えるかどうか、と言う事ですね。かなり厄介な事ですね。なんでも「御」を着けりゃーいいんだよ、と仰(おっしゃわ)られる「御」方がおられますよね。特にお料理の先生に顕著にお見受け致しますね。

「お御飯を、お茶碗に、お盛りになられて、お出し下さいませ。」なんてね。さすがに、これは極端でしょうが、何だか「お・御」の大安売りみたいで、かえって、耳障りになっちゃったりしましてね。「お御飯」なんぞ、「御」の字の二階建てですからねー。

まー、ほどほどにしませんとねー。あまり行き過ぎると慇懃無礼になってしまっては、逆効果ですからね。

私ゴトで恐縮ですが、私はタメ口で来られても、大して気にしませんね。問題は話の内容です。内容は、大いに気にかかりますが、今時、タメ口を気に掛けていては、他人と話が出来ないくらいに思いますね。タメ口の当人は、タメ口の自覚が御座いませんからね。それをいちいち咎めても、仕方が無いのですよね。そんな事しようものなら、肝心の話の内容が、どこかへ飛んで行ってしまいますからね。

タメ口には、こっちもタメ口、と言う「気配り」をしなくてはね。礼儀に反しますよ。これが今時の平等というものなのでしょうからね。キット。

 

と言う事でして、「気配り」は、まず、言葉遣いに気を付けなければならない様です。

当然、言葉遣いだけでは御座いません。態度・行動は申すまでも御座いませんね。また、その環境を常に念頭に置いておかなくてはならない様ですね。上司が、部下に注意したり、叱ったりする時、人前では行わず、人目につかないところで秘かに行うと言う気遣いが必要とか。物事をゾンザイにやると、他人を傷付けたり不快にしたりしますから、気を付けなくてはなりませんね。すぐに、ハラスメントどうのこうのと、なり兼ねない今時でしょうからね。この様な幅広い「気配り」がね、必要の様ですなー。

要するに、身の回りの事柄全般に、配慮しなくてはいけませんからね。これは、中々骨の折れる事です。

いっその事、「気配り」を止めてしまった方が、かえって、お互いに気楽なのでは、と言うことにもなりそうですね。

要するに、程度の問題と言うことなのでしょう。まーあまりゾンザイに扱われると、不快を感ずることは有り勝ちですね。かと行って、度を越したばかっ丁寧は、かえって他人を不快にしたりしますからね。慇懃無礼だと言う事になっては、「気配り」の範疇を越してしまいますからね。他人行儀も度を過ぎるとね、しっくりこなくなりますからね。万事、ほどほどと言う事なのでしょうね。と言いつつ、このほどほどが、実は曲者なので、難儀なのですよね。

とにかく、「ハラスメント主張時代」を乗り切るためには、常日頃からの周辺に対する「気配り」の訓練が大事な様ですね。何がハラスメントに該当するのか、中には新たなハラスメント開発に専念しておられるお方も、まま見受けられる様な事も珍しくないですよね。これもサイドを変えてみれば、その様なハラスメント主張が、そもそもハラスメントではありませんか、と言うことにもなったりしましてね。やはり、適切に、ほどほどにと言うことが、大事なのでしょが。このほどほどが、それぞれの個体差があるでしょうから、難しいところが御座いますね。

そもそもは、精神的に、被害を受けた人の救済対策として、「ハラスメント主張時代」が形成されて来たわけでしょうから、ハラスメントを受けたとする側の認識がどうか、と言う事が問題となるのでしょうね。

当然、個体差が見られる事ですから、その判断が難しい場合があるでしょう。

例えば、Aという人が10人を対象として、ある行為を行なった。その結果、9人は特にハラスメントを受けたとは感じなかった。しかし、1人がハラスメントを受けたと感じた場合、Aの行為がハラスメントに該当するか否か、と言う事になると、民主的と言われる多数決による手法に基づけば、一般的には、Aの行為はハラスメントに当たらない、と言う事に判断されるのでしょうね。

しかし、視点を変えれば、たとえ1人であっても、ハラスメントを受けたと感じた人がいた場合、Aの行為は、果たしてハラスメントに該当しないのか、と言うと、現状の多くの場合は、そうはいかないと認識とされる方が多いのではないのでしょうか。これは、小生の独偏(独断と偏見の略語)でしょうか。

そもそもが、被害を受けた人の救済対策として、「ハラスメント主張時代」が形成されてきた経緯からすれば、たとえ1人でもハラスメントを受けたと感じた人がいた場合は、Aの行為を全面的に正当化されるのは、難しいと言う事になるのではないでしょうか。

要するに、ハラスメント事件を多数決で決着をつけて良いか、と言う基本的な問題があるのでしょうね。そもそもハラスメントを多数決で是非を決めると言うのは、問題の性格上、あまり相応しくないのではないのでしょうかね。とにかく、難解なところが御座いますね。

色々な側面に「気配り」が必要なことは、確かな事でしょうね。気疲れするご時世ですなー。

 

と言いつつ、毎度の様に、ただただダラダラと長話になってしまいました。これではダメだ、と言う点に「気配り」が必要ですね。やっばり、最初に申し上げてあった様に、この種の話は、難しー。小生には不向きでんなー。もうちょっと、軽い単純なテーマがいいですよね。と言う事に気が付いたら、さっさと止めるのが、「停念堂閑記」の特徴ですから、直ちに止めます。

ただし、こちらの都合による一方的なことで申し訳御座いませんが、けっこうヒマ潰しにはなりました。こちらはまあまあ成功で御座います。

失礼をばい致しました。それにしても、面白みの全く感じられない話でしたなー。きっと、生真面目が災いしてますなー。えてして、真面目は面白みが御座いませんよ。ホンマ。

やっばり。「停念堂閑記」は、おチャラけなくてはねー。ひたすら反省ですわ。

無駄な時間を過ごさせてしまった様で、申し訳次第も御座いません。反省、反省。次回は、なんとかしなくては。

 

どうも、お疲れ様で御座いました。懲りずに、またのお越しを、お待ち申し上げます。

お後がよろしい様で。

《停念堂閑記》161

《停念堂閑記》161

 

「停念堂寄席」98

   

「無鉄砲」

  

ようこそ、「停念堂閑記」へ。

よくお越し下さいました。厚く御礼申し上げます。

よほどおヒマなのでしょうか。他に行く所が無いのですか ? 

失敬、失敬。とんでも御座いません。ご多忙の中「停念堂閑記」をお開き頂きまして、誠に有難う御座います。どうぞ、ごゆるりと、ヒマ潰しをなさって下さいませ。 

早速、恐縮で御座いますが、ここでの話は、相も変わらぬ、毎度毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う、略して「アバク」の三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリの、底、奥行きのメッチャ浅い、要するにヌケ ? な話です。 すみません、マが抜けてしまいました。まさに、マヌケな話で御座います。

と言う事でして、あまり期待をなさらないで下さいね。

そんな事、元よりしていないってですか。

アノー、ですね、日本には、忖度(相手の気持ちを考慮すること)と言う文化があるのですよ。なんと麗しい(?)文化では御座いませんか。

ところが、現在は、忖度すると言うのが、いけない事の意味合いに感ずる方(かた)が多い様に見受けられますなー。おそらく、政治の場において、権力者に対する忖度が際立ち、弱者側に目を向けない場合が多く見られた所為(せい)ですかね。それで、一般的に忖度すること自体、歓迎されないことが、多くなった、と感ずるのは、小生の独偏(独断と偏見の略語)でしょうか。

特に、今時の若者は、忖度が嫌いなように見受けられますが、そのくせ “場の空気を読めよ” なんて事を言っているのをよく耳にしますなー。マー、その時々の感情優先と言うことなのでしょうかねー。

しかし、日比憐休のマヌケな話とは申せ、多少の取柄もございますよ。それは、決して深刻にならないところです。夜、眠れなくなったりしませんからね。

かつて、春日三球・照代さんと漫才師がおられまして、地下鉄の列車がどのようにして地下の線路に入れられたのかを考えると、夜も眠れなくなる、と言うネタで、結構受けていた事があったのですよ。蛇足ながら、若者諸氏へ。

ここでの「アバク」な話は、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

ただし、生真面目な(?)ところが、唯一、トビッキリの取柄(?)なんですよ。

ホンマかいな。どこが、真面目なんや ? ってですか。

たとえトンマなフザケタ話でも、真面目に取り組まなくてはいけませんよ。とにかく人間不真面目はいけません。

たとえ、ここでの話の真の目的が、単なるヒマ潰しでもね。 

なんちゅったって、真面目にヒマを潰さなくてはならないのですよ。ふざけていてはいけませんよ。ふざけるのは、話だけにして下さいよ。とにかく何をおいても真面目に、真摯にヒマ潰しに取り組まなくてはね。人の道に悖(もと)りますよ。

真面目を越すヒマ潰しは御座いませんよ。

あるお方が申しておられました。

ヒマ潰しにやることは、須(すべか)らくアホくさいものだと。

これは真実ですよ。キット。

毎度毎度の《停念堂閑記》がそれを如実に証明しておりますからね。科学的な論拠です。《停念堂閑記》が科学の範疇か ???  

さて、定年後の御同輩、きっと、持て余しているのでは。

毎日のヒマを。

お互いに、持て余しているヒマを、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ならないのですよ。これがリタイア後の最大の課題ですからね。当然、真面目にですよ。

しかしですね。これは、これで、なかなか、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙掛らなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

そうです。その通り。至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。 

と言うことで、本日も張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

どうです。この生真面目な姿勢。どこを切っても生真面目の金太郎飴。この真摯な生き方こそ、リタイア後のヒマ潰しのあるべき理想の姿とはお思いになりませんか。

ヌッ! 思わない! 

それはそれで、結構で御座いますよ。忖度は不要です。まー、好みは、人それぞれですからね。それで良いのですよ。キット。ぜったいに、負け惜しみでは御座いませんよ。なんちゃってね。

尚、はじめに、謝っておきます。一所懸命お働きの皆様、ふざけた話で、申し訳御座いません。どうぞ、ご勘弁の程を、お願い申し上げます。

それでは、参ります。

 

打倒! ヒマーッ!

エイエイ オー! A A O!  

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声でんなー。

情けねー! トホホ・・・・・

 

今回は、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う「アバク3原則」を踏まえて、なんと途轍もない有意義 (?) な話をしようと思うのですよ。思うのは自由ですからね。自由はいいね。あれこれ制約されたら、たまりませんね。生活し難いですからね。

前以てお断りしておきますが、有意義(?) な話は、往々にして、全然面白味が御座いませんよ。決して、ウソは申しません。この点は、トクトご記憶下さいませ。サー、面白くない話で、思いっきり凹み(へこみ)下(さ)がり(「盛り上がり」の反対のつもりです。)ましょう。

 

さて、ここでの話は、今言ったばかりですが、、有意義(?) な話で御座いますが、これがどっこいそうは参りませんよ。本当は、無駄話なのですよ。そうです。有意義な無駄話なのですよ。単なる毎度毎度のヒマ潰し!

ところが、無駄話とは申せ、とにかく話を作らなくてはならないのですよ。これが行き当たりバッタリと来てますから、なかなか難儀なのですよ。何か、魂胆があって、予め筋書きを用意してあるわけでは無いのですよ。尻滅裂、オット、変換したら、何やら怪しげな文字が出てしまいましたよ。本当は、支離滅裂を期待していたのですが、尻が出て来てしまいましたな。こう来るとは、シリませんでしたよ。いきなり、クレヨンしんちゃんの登場ですわ。予期せぬ事態であります。

やっぱり、用意なく、話を作ろうなんて、所詮、無鉄砲と言うのでしょうかね。

ハッ! 閃きましたよ。閃きましたよ。下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、と言うものですな。

今回のテーマは、「無鉄砲」と言うことにしますわ。

 

今、何気無く「無鉄砲」と言う語が浮かんだのですが、ふと、「無鉄砲」とはどう言う意味なのだ、語源は ? と言う事が、半ボケの脳裏を掠めたのですよ。今まで、「無鉄砲」とは、どんな意味だ ?  と言う疑問を持って、わざわざ調べた事がなかったのですよ。字面からすれば、鉄砲を持たずに、戦場に出かけると言った意味で、転じて、状況を弁えず、闇雲に何かをしようとする事、と言った意味合ぐらいに思ってましたね。まさに、「停念堂閑記」の「アバク」な話そのものですよ。

 

今は、便利になりましたね。以前は、分かり難い言葉に出っくわすと、国語辞典とか漢和辞典に当たるべき所を、チャチャっと、ネットで検索すれば、ハイ事済みとなりますからね。

ただし、ネット情報は、迂闊に飛びつくと、とんだスカをつかまさせられる事が御座いますから、注意が必要ですね。

 

そこで、早速、「無鉄砲」の意味・語源を検索してみましたところ、沢山ヒットしましたね。いきなり、満塁状態ですわ。

小生の関心事について、要点をみますと、

意味は、事情をよく考えずに行動してしまう事、向こう見ず、無謀、命知らずなどなど、色々出てきますなー。通常、一般的に、このような意味合いで使われていますね。

因みに、『広辞苑』では、むてっぽう 無手っ法 無点法の転。

  理非や前後を顧みず、むやみに事をすること。むこうみず、あ   

  とさきみず、無鉄砲。

と記されています。

 

「無鉄砲」は、字面(じづら)からすれば、鉄砲が無い状態のことですね。これから派生して、準備なくやろうとする事は軽はずみだ、と言うような意味で、通常使われているのではと思われますね。準備不十分のまま事に臨むと言う意味ですね。まさに、「停念堂閑記」の話にぴったりですな。

 

ところが、語源からすると、「鉄砲」は当て字で、本来は、「鉄砲」とは関わりがないと言われているようですよ。

諸説があるようです。

その一説に、鉄砲を持たずに、戦いに挑むと言うことではない。「無点法」或いは「無手法」と言う語に、「無鉄砲」の字を当てた語と言われているようです。

 

「無点」とは、ドラえもんの相棒、野比のび太君がよくとるテストの0点の事ではないようですよ。

少々お堅い話になりますが、漢文に訓点(日本語読みにする時につける句読点や返り点など)がつけられていないことを「無点」と言うのだ、と言う事です。  

この無点の漢文は、読み難くて、意味が分かりづらいのです。それで、意味がはっきりしない事を「無点法」と言うようになったそうです。そして、これに発音が幾分似ている「無鉄砲」の字が当てられたと言うことだそうです。

ネット情報では、このように、解説したものが多く見られます。従来、このように考えられて来た、と言う事なのでしょうね。

ところで、「無点」の意味はわかりますが、ここからが、言わずもがなの屁理屈です。

すなわち、「無点」に「法」の字が付くと、どうなるのでしょう。

「法」は、一般に、憲法とか法律とか、決め事の意味に使いますね。または、やり方 ー方法ー を表す文字として使いますね。

そうしますと、「無点法」は、「漢文に訓点を施さない決め事、漢文に訓点を施さないやり方」と言うような意味となるのではないでしょうか。どうでしょう。この屁理屈。屁理屈は、何処にでも、すぐくっ付きますよ。

としますと、例えば、「漢文に訓点を施さない決め事・その方法」となると、それは、一体どんな決め事、方法でしょうな、と言う屁理屈がついて来る事になっちゃうのですよ。

訓点を施さない漢文は、白文と言われますが、中国で書かれた漢文は、当然、白文で訓点など施されてはおりませんね。必要が御座いませんからね。

すなわち、中国で、漢文が書かれる時には、そもそも「漢文に訓点を施さない決め事、あるいはその方法」なんと言うことは、全く配慮されることではないでしょうね。

 

中国で漢文で書かれた書物が、日本に持ち込まれて、さてどのように読むのかが問題となったでしょうね。そこで、日本語に直す場合に、元の漢文に、訓点を施すと具合が良い、と言う事が考え出されたものと、思われますね。

誰が、訓点を施す方法を思いついたのか、小生は知る由も御座いません。日本では、昔、誰かが、漢文で書かれた本を読みましたよ、と言う場合は、その人の判断で訓点を施した、と言う事だ、と言うことを聞いた覚えが御座います。要するに、どのように訓点を施してかが、漢文を読む、と言うことなのです。他の人が読んだ場合、訓点の施し方が異なるかも知れない訳です。それは、読んだ人が、どのように訓点を施して読んだのか、と言う事になるのですね。

 

と言うことで、「無点法」は、「漢文に訓点を施さない決め事・その方法」とした場合、そんなこと言われても、はて、なのことか、とピント来づらいのですよ。

一方「漢文に訓点を施す場合の決め事」と言えば、これは分かりますよね。

例えば、禅寺の入り口には、

  不許葷酒入山門

と刻した石柱が建てられていましたね。

これに訓点を施せば、

  不葷酒入山門

となるのが、一般的だと思われます。

  記号は、この下方の文字を先に読むこと、一 二 三 は、 一 二 三 の順に読むことと言う記号です。これに従って日本語読みにすると、 

  葷酒山門に入るを許さず

と読ませるのが、一般的ですよね。

葷は、葫(にんにく)とか韮(にら)などの匂いのきつい物、酒はお酒です。すなわち、葷酒を、寺の境内に持ち込むことを許さ無い、と言う寺側の戒めです。

ところが、

  不葷、酒入山門

訓点を施せば、

  葷許さず、酒山門に入る

となり、葷は許さ無いが、酒は山門に入って良い、と言うような意味合いとなります。

また、

  不葷酒、入山門

訓点を施せば、

  葷酒を許さず、山門に入る

となり、些か苦しいけれど、葷酒は許さないが、寺の境内に入るとなってしまいます。

さらに、

  不許葷酒、入山門

訓点を施せば、

  許さざる葷酒、山門に入る

となり、許していない葷酒が、山門に入るとなります。もとよりこのような読み方は無理なのですが、ここは、お笑いを優先して、葷酒は許していないが、寺の境内に入ってしまう、苦しいながらも、呑んべいさんにとっては、都合の良い読み方となります。

この例は、よくお笑いのネタとして使われてますね。

 

このように、訓点を施すには、ある程度の決まり事に従う、と言うのが一般的で、訓点の施しようによっては、漢文本来の意味が異なってしまう場合もなくは無いのです。本来の文章の意味合いを崩さないように読む事が肝心なのは、申すまでも御座いません。

 

と言うことで、「無点法」は、漢文に「訓点を施さない決め事・方法」と言われても、何のことか、ピンと来づらいですね。

ところがです。漢文に「訓点を施す方法」と言うのがある、と言う事になりますと、「訓点を施さない方法」もあるのでは、と言う理屈が存在する事になったりしますね。図らずしも、「無点法」が存在する事になってしまうのですよ。

そして、「無点法」に、「無鉄砲」の語が当たられることになった、と言うのですよ。まーいくぶん発音が、似通っていますが、どうでしょうね。このような事がないとは言えず、あってもおかしくはないのでしょうね。

しかし、「無点法」が、仮に「漢文に訓点を施さない決め事・方法」と言う意味合いだとすると、現在使われている「事情をよく考えずに行動してしまう事」と言う「無鉄砲」との意味合いが、どうもしっくり来ない感じがしますね。

これには、これなりの理由があるようです。

すなわち、無点の漢文は、読み難く、意味も分かりづらいのだ。それから派生して、事情が分からことを「無点法」と言うようになり、これに「無鉄砲」の文字が当てられることになったのである、と言うような説明がなされているようです。

類似点をこじつけるにしても、「無点法」が、いきなり難解で意味が良く分からないまま、何かを行うやり方、と言うような意味合いになるのでしょうかね。

すなわち、「無点法」は、漢文に訓点をつけないやり方だとすれば、これが「事情をよく考えずに行動してしまう事」の意味合いとなるには、かなりの飛躍があるように感じますなー。

小生には、幾分ピント来ない感じが致しますね。小生が、ピンとこないと言ったところで、それがどうした、ですからね。どうにかなると言うことでは、御座いません。蛇足ながら。

なお、『広辞苑』では、「むてっぽう」の項目で、「無鉄砲」の語を当てた項目は見られません。「無手っ法」の語を当てて、「無点法の転」と解説されています。そして、「理非や前後を顧みず、むやみに事をすること。むこうみず、あとさきみず、無鉄砲。」と書かれています。要するに、「無鉄砲」は、「むこうみず、あとさきみず」と同類である、とする記載とみなされます。

広辞苑』では、「無点法」が転じて、「無手っ法」となり、「無鉄砲」と同じ意味合いである、と解説されていると見て良いでしょう。「無鉄砲」自体の解説がないのが残念です。

 

言葉の発生、新語の発生について、何時、何処で、誰が、どのようにして、と言う観点から真相を突き止めよう、なんて言うことは、すこぶる難儀なことですよね。「無鉄砲」についても、「無鉄砲」がよく似合う長屋の八さん、熊さんが、テヤンデー、ベラボーメ とやる時に、いちいち「無鉄砲」は「無点法」から転じたのよ、なんてことは考えもしないでしょうな。長屋のおかみさん等の井戸端会議にだって、熊さんの奥さんが、うちの宿六はとにかく無鉄砲で、とぼやく時に、「無点法」が脳裏をかすめることは、まず、ないでしょうな。そもそも、「無点法」などと言うことは、広く庶民の知識となっていたのでしょうかね。寺子屋の先生が、子供を集めて、漢文に訓点を施さないことを「無点法」と言うのだよ、と教えていたのでしょうかね。

きっと、漢文に接する機会の多い人達の間では、「無点法」どうのこうのと言う事が、話題に上ったものと推測はされますね。そのような場から、読みづらく、意味もわからない漢文を「無点法」と言われ出したのでは、と思ったりはしますね。この事情を、何時、何処で、誰が、どのようにして、と問われても、何とも困ってしまいますねー。きっと。

 

次に、「無手法」について見ますと、「無手」は、手に何も持っていない事、或いは特に技術や芸等を身につけていない事、だと言われています。これに「法」の字が付けられると、その決め事や方法の意味となる訳でしょうね。特に道具や技術などを持たないでやる決め事、道具や技術などを持たないでやる方法と言うくらいの意味になりそうですね。と言うことで、「無手法」に、「無鉄砲」の字が当てられた、と言うことのようです。

「無手法」が「無手っ法」と読まれた。すなわち「むてっぽう」と言われるようになって、これに「無鉄砲」の字が当てられた、と言うことなのでしょうね。

「無点法〈むてんほう〉」に「無鉄砲」が当てられた、と言うよりは、「無手法〈むてほう〉(むてっぽう)」に「無鉄砲」が当てられた、と言う方が、無理がないようにも見られますが。実際が、どうであったかは、分からない事ですから、なんともねえ・・・ と言うほか御座いませんね。

 

蛇足ながら、太田為三郎編『日本随筆索引』によれば、江戸時代後期の戯作者柳亭種彦の『柳亭記』(上ノ四七)に「むてつぱう」の詞が見られると言うことです。漢字としてどのような文字が当てられたのかは、確認されておりません。

すでに、江戸時代後期には、「むてつぱう」と言う詞があったようですね。しかし、これが「無点法」の意味を引くものか、「無手法」の意味を引くものか、はたまた、全く別ものなのか、はっきり致しませんね。「無点法」や「無手法」とは全く何ら関係がなく、発生の最初から「無鉄砲」だったりしたとしても、それはそれかも知れませんね。無理やり、「無点法」や「無手法」に結び付けなくても、こじつけ無くても、最初から「無鉄砲」だったのさ、と言う方が、分かり良い気がしますねー。証拠は御座いませんが。

要するに、詞・言葉の発生には、本来、その理由・事情等があった事には、間違いないと思われますが、詞・言葉の発生の現場を突き止めることは、かなり難し事ですよね。ドラえもんに頼んでみたら、どうにかなりそうかも知れませんがね。しかし、ドラえもんだって、のび太くん相手に、「無点法」がどうのこうのやる訳ないですよね。

 

今は、例えば、お笑い芸人さんや漫画家さん、作家さんなどの誰かが、今まで使われていなかった詞・言葉を突然使って、図らずしもそれが大受けして、一気に広まってしまったと言う例は、結構あるのではないでしょうか。

例えば、志村けんさんの「アイーン」と言うぎゃく、赤塚不二夫氏作の出っ歯のイヤミさんが発する「シエー」や『ゴルゴ13』でお馴染みのさいとう・たかお氏が使い出した「劇画」などは、よく知られているところですね。この手の語源がはっきりしている詞・言葉は、現在では沢山あると思われますが、ずーっと昔となると、その証拠を文献資料に見つけ出すことはすこぶる大変、大難儀の事ですね。

詞・言葉は、計り知れない膨大な数にのぼりますが、その一語一語について、語源が明解になることはないと思われますし、明解にすることは、すなわち史料的に事実を証明することは。正に気の遠くなる作業に他なりません。

でも、この詞・言葉の語源はなにかなー、と思うことは、ままある事ですね。その時に、それなりの手間暇金をかけて調べたりする奇特な方がおられたりする訳ですね。まー、関係ありそうな資料にあたり、証拠を探し求めるのですが、中には、うまく求めているものに巡り合うこともありましょうが、これが、そうは行かない場合が多々ある訳ですね。その場合は、目下調査中であり、結論は未だ不明と言う事になるのでしょうね。

 

しかし、これではどうも治りが悪いと感じた時には、証拠探しとは別のやり方に走る場合がある訳ですね。

往々にしてとられる方法として、類似する詞・言葉を漁り、なんとかそれとの関係を考え出して、要領よく結び付けて、実は、こうだったのではないのか、と言う見解を作り出す事になったりする訳でしょうね。分かりよく言ってしまえば、例えば、ほとんど駄洒落の仕法で、何とか納得行かせてしまおう、なんて言う方向も出てくる事になりかねないのですよね。要するに、実証はされないが、なんとか理屈をつけて、納得されそうなことを、体裁よくまとめると言うことですかね。

 

いくらヒマ潰しとは申せ、ほとんど手掛かりもなく、「無鉄砲」とは ? なんと言うことに、手を出す事自体、正に「無鉄砲」と言うほか御座いません。

甚だ、安易なオチで面目次第も御座いません。

 

どうもお付き合い下さいまして、お疲れさんで御座いました。

懲りずに、またのお越しをお待ち申しあげます。

お後がよろしいようで。

《停念堂閑記》160

 

「停念堂寄席」」97

   

「癒しの時代」

  

ようこそ、「停念堂閑記」へ。

よくお越し下さいました。厚く御礼申し上げます。

よほどおヒマなのでしょうか。他に行く所が無いのですか ? 

失敬、失敬。とんでも御座いません。ご多忙の中「停念堂閑記」をお開き頂きまして、誠に有難う御座います。どうぞ、ごゆるりと、ヒマ潰しをなさって下さいませ。 

早速、恐縮で御座いますが、ここでの話は、相も変わらぬ、毎度毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う、略して「アバク」の三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリの、底、奥行きのメッチャ浅い、要するにヌケ ? な話です。 すみません、マが抜けてしまいました。まさに、マヌケな話で御座います。

と言う事でして、あまり期待をなさらないで下さいね。

そんな事、元よりしていないってですか。

アノー、ですね、日本には、忖度(相手の気持ちを考慮すること)と言う文化があるのですよ。なんと麗しい(?)文化では御座いませんか。

ところが、現在は、忖度すると言うのが、いけない事の意味合いに感ずる方(かた)が多い様に見受けられますなー。おそらく、政治の場において、権力者に対する忖度が際立ち、弱者側に目を向けない場合が多く見られた所為(せい)ですかね。それで、一般的に忖度すること自体、歓迎されないことが、多くなった、と感ずるのは、小生の独偏(独断と偏見の略語)でしょうか。

特に、今時の若者は、忖度が嫌いなように見受けられますが、そのくせ “場の空気を読めよ” なんて事を言っているのをよく耳にしますなー。マー、その時々の感情優先と言うことなのでしょうかねー。

しかし、日比憐休のマヌケな話とは申せ、多少の取柄もございますよ。それは、決して深刻にならないところです。夜、眠れなくなったりしませんからね。

かつて、春日三球・照代さんと漫才師がおられまして、地下鉄の列車がどのようにして地下の線路に入れられたのかを考えると、夜も眠れなくなる、と言うネタで、結構受けていた事があったのですよ。蛇足ながら、若者諸氏へ。

ここでの「アバク」な話は、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

ただし、生真面目な(?)ところが、唯一、トビッキリの取柄(?)なんですよ。

ホンマかいな。どこが、真面目なんや ? ってですか。

たとえトンマなフザケタ話でも、真面目に取り組まなくてはいけませんよ。とにかく人間不真面目はいけません。

たとえ、ここでの話の真の目的が、単なるヒマ潰しでもね。 

なんちゅったって、真面目にヒマを潰さなくてはならないのですよ。ふざけていてはいけませんよ。ふざけるのは、話だけにして下さいよ。とにかく何をおいても真面目に、真摯にヒマ潰しに取り組まなくてはね。人の道に悖(もと)りますよ。

真面目を越すヒマ潰しは御座いませんよ。

あるお方が申しておられました。

ヒマ潰しにやることは、須(すべか)らくアホくさいものだと。

これは真実ですよ。キット。

毎度毎度の《停念堂閑記》がそれを如実に証明しておりますからね。科学的な論拠です。《停念堂閑記》が科学の範疇か ???  

さて、定年後の御同輩、きっと、持て余しているのでは。

毎日のヒマを。

お互いに、持て余しているヒマを、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ならないのですよ。これがリタイア後の最大の課題ですからね。当然、真面目にですよ。

しかしですね。これは、これで、なかなか、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙掛らなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

そうです。その通り。至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。 

と言うことで、本日も張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

どうです。この生真面目な姿勢。どこを切っても生真面目の金太郎飴。この真摯な生き方こそ、リタイア後のあるべき理想の姿とはお思いになりませんか。

ヌッ! 思わない! 

それはそれで、結構で御座いますよ。忖度は不要です。まー、好みは、人それぞれですからね。それで良いのですよ。キット。ぜったいに、負け惜しみでは御座いませんよ。なんちゃってね。

尚、はじめに、謝っておきます。一所懸命お働きの皆様、ふざけた話で、申し訳御座いません。どうぞ、ご勘弁の程を、お願い申し上げます。

それでは、参ります。

 

打倒! ヒマーッ!

エイエイ オー! A A O!  

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声でんなー。

情けねー! トホホ・・・・・

 

今回は、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う「アバク3原則」を踏まえて、なんと「癒しの時代」をテーマとする有意義 (?) な話をしようと思うのですよ。

前以てお断りしておきますが、有意義な話は、往々にして、全然面白味が御座いませんよ。決して、ウソは申しません。この点は、トクトご記憶下さいませ。サー、面白くない話で、凹み(へこみ)下(さ)がり(「盛り上がり」の反対のつもりです。)ましょう。

 

さて、いきなりお堅い話で恐縮で御座いますが、社会は刻々と変化し、極めて複雑な体をなす事態となってきてますなー。80歳を超えた半惚ジジーは、そのスピードには、とてもとても付いて行くのが、極めて困難な事態となっております。イキナリの半惚ジジーのボヤキで御座います。

とにかく、社会の変化するスピードは、ハンパでは御座いませんなー。テレビなんぞを見ていても、なんか聞きなれない言葉が飛び交って、それが当然の事の様に話されるアナウンサーをはじめとする出演者の皆さん、話の中身は半分も届いておりませんよ。と言う様な事態がしばしば、否、しょっちゅうと言う状況なのですよ。これはきっと世間知らずの小生に限った事なのでしょうが。

ひょっとしたら、ひょっとしたらですよ、この様な状況に心当たりがあると感じておられる方も、或いはおられるかも知れませんね。お仲間様です。大事にしなくてはなりません。仲間は、多いほど気が楽になりますなー。

 

理解できない話に遭遇しますと、早い話が、どっと疲れます。疲労感がひどくなります。この様な現象は、テレビに限った事では御座いません。日常社会のあちこちで発生しております。要するにストレスがタップリ溜まるのですよ。

疲れた人の行動は、個々人により当然異なりますが、とくに疲れを意識しないで過ごせる方が存在しますよ。言うならば、「ストレス不感受型」のお方です。このお方は、ストレスが発生していても、感じない方ですので、ストレスなど、ナンも気にならない。ストレスなど、どこ吹く風で、たとえ能天気と言われようが、シャーシャーと過ごせるお方です。このタイプの方は、ストレスに対して、絶対的な免疫をお持ちの方ですので、ワクチンなど全く不要ですよ。いわば現在の社会における勝者、最強の方ですね。金メタルです。羨ましい存在ですね。時々、お見受け致します。

次に、ストレスに遭遇しても、なんなく通り越して行ける方がおられますなー。ストレスは感じているのだけれど、大して気にしなくて済んでしまうお方であります。いわば「ストレス スルー型」の方ですな。このタイプの方は、ストレスを感じていることは、ちゃんと認識しているのですよ。分かっているのです。しかし、それに拘らず、なんなく、やり過ごせるお方です。便利なお方です。このタイプの方も、現在の社会における強者ですね。羨ましい存在です。

この二つのタイプの方は、今の社会を過ごして行くのに、大変都合の良い、強い方です。

 

ところがそうでは無いお方が、存在しますね。

色んな方が、いらっしゃいますから。中には、実にこまめに、いちいちストレスを収集しておられるなー、とお見受けするお方様がいらっしゃいますなー。神経が細かいと言うか、いわゆる能天気なお方の対極に存在するお方ですな。とにかく、周辺の出来事には、大小に関わらず、気になってしまうお方ですね。言うならば、「ストレス収集貯蔵型」とでも言うべきタイプの方ですね。

能天気サイドから見ますと、とてもお気の毒な存在のお方ですね。周りの事が、とにかくいちいち気に掛かる。神経が大忙しで、安まる事がない。お疲れ様ですなー。

周囲の出来事を気に掛ける「ストレス収集貯蔵型」の方も、さらに細分すると、

(A)とにかく何でも気に掛かり、それがストレスの種となる方、

(B)ある特定の事が、気にかかり、ストレスの種となる方、

 〈1〉ある特定の事が多い方、

 〈2〉ある特定の事が少ない方、

 〈3〉ある特定の事の多少を、にわかに判断できない方、

と大雑把に、分類してみました。あなたは、概ねどのタイプでしょうかね。

 

(A)とにかく何でも気に掛かり、それがストレスの種となる方は、何と言って良いでしょうか。ただただお気の毒と言うより御座いませんね。持って生まれた性格でしょうから、簡単にどうのこうのできる話では御座いませんよね。できる事なら、専門医に相談するより無いのでは御座いませんでしょうか。

(B)ある特定の事が、気にかかり、ストレスの種となる方は、何か原因となる事があるのでしょうから、それを突き止めて、排除する方向を模索しなければなりませんね。信頼できる相談相手がおられると良いですね。または、やはり専門医に相談するより無いのかもしれませんね。

 

さて、ここで問題としたいのは、溜まったストレスの解消の仕方です。「ストレス不感受型」・「ストレス スルー型」の方は、ストレスと距離のある存在ですので、特に、その解消については、手間をかける必要は御座いませんね。

問題は、「ストレス収集貯蔵型」のお方ですね。常に、ストレスを背負って日常を送らなければならない方ですから、骨が折れますね。本人は、当然のことですが、その方を取り巻く周囲の方にも、影響を及ぼしたりしますから、適切な対処法が必要になりますね。

ストレスが溜まると、どうなるのか、大雑把に挙げてみますと、概ね次のようではないでしょうか。

 1) 落ち込んでしまう人、

 2) 事態から逃避してしまう人、

 3) 何事も投げやりになり、無関心になってしまう人、

 4) 閉じ篭ってしまう人、 

 5) ピリピリして他人とのコミュニケーションがまずくなる人、

 6) 無闇に攻撃的になってしまう人、   

と言ったあたりでしょうか。特徴は、異なりますが、「ツカレター」は共通なのでしょうね。

 

ストレス解消法は、人によって、それぞれ異なるでしょうね。

特に、これと言った事をなさらない方も多いでしょうね。いわば「我慢型」の方と称して良いでしょうか。当面はひたすら我慢して、時の経過を待つ、と言うことでしょうね。時の経過によって、ナンとかなるでしょう、と言う事です。

ー、世の中は、こんな状態で進んで行く側面があるのが、普通の様に思われますねー。

 

ところで、最も単純に、このストレスを解消できる方法はないものかと、安易なことを考えたりするのですよ。皆さん、どの様にして、ストレス解消をしておられるのでしょうかねー。

以前は、会社でつまらん事で、上司から小言を食らって、クソ面白くもねー、と帰宅して、ひとっぷろ浴びて、テレビでナイターを見みながら、 枝豆をツマミに、冷えたビールをグィーッ、と言うのが、どこの家庭でもよく見られた昭和のストレス解消の光景でしたね。贔屓のチームが勝てば、勝利の祝杯、ストレス飛んでけー! 負けたら負けたで残念杯、次回の勝利を期して乾杯と行く。どっちに転んでも、飲めるから、これでいーのだ。とストレスをすっ飛ばして、また、翌日、せっせと会社へ出かけて行く。平均的なサラリーマンの光景でしたね。

現在だって、上司のパワハラにウンザリしたOLさんが、会社が引けると取り敢えず仲良しと、居酒屋でビール、美味い物を食べて、スイーツをハシゴして、と言うのもお馴染みの光景でしょうか。

マー、一般的なストレス解消法は、仲良し友達、仲間、同僚、家族などと、不満をぶちまけあったり、慰めあったりして、明日につなげると言ったところでしょうか。その時に、飲んだり、食べたりと言うような事が伴いがちでしょうな。

或いは、一人の場合は、ノンビリ入浴したり、映画をみたり、音楽を聴いたり、本を読んだり、スマホをいじくり回したり、それぞれの好みで気を紛らわしたり、と言うような事が多いのではないでしょうかね。

時間と金がなんとかなれば、旅行に出かけたり、温泉へ行ったり、芝居、コンサートなどイベントへ出かけたり、欲しかったものを思い切って買ったり、或いは、競馬、競輪、競艇オートレース、パチンコなど賭け事に興じたり、美容院、エステサロンへ行って磨きをかけたり、はたまた、好きなスポーツをやったり、観たりとか、ゴルフや釣りに出かけたり、それぞれの欲求を満足させる事により、ストレスから脱出すると言う手もあるでしょうね。但し、賭け事は、負けるとストレスが上積みされますから、用心しなくてはなりませんね。

 

そこで気が付いた事が一つあるのですよ。

それはですね、それぞれがそれぞれの方法で、ストレス解消を図っている事でしょうが、それぞれの欲求を満たすには、それなのり手間暇金を要する場合が多いですよね。

その中で、最も手軽に行われていることは何かと申しますと、小生の独偏(独断と偏見の略語)では、どうも〈癒されたい!〉と言うやつのように思われるのですが。皆さんどうでしょうかねー。

テレビを見ていると、最近、時々、いやしょっちゅう〈癒される!〉とやっている場面に出くわすのですよ。何かにつけて、〈癒される!〉とやる人が、兎に角やたら多いのに気がついたのですよ。

そこで、ハッと閃きましたね。(大したヒラメキではなくて、恐縮です。)  オッ!、これだ。多くの方がストレスを解消しているのは、まさにこれではないのか、と言うことなのですよ。

兎に角ですね、〈癒されたい願望〉をお持ちのお方の何と多いことか。何に、どのような事に癒されるのかは、それぞれにより違いますよ。しかし、何かの拍子に、ホッとする瞬間を感じ取る方(かた)が、多いようですね。これがストレス解消の役に立っているのですだよ。

何かの事情があって落ち込んでいた時、景色を見て、花を見て、赤ちゃんの笑い顔を見て、はたまた好みのちょっとした甘味に遭遇した時などに、〈癒されたー!〉て感じるのではないでしょうか。これが、実に、ストレス解消になっているのでは、と言う事ですよ。旅行に出かけるとか、大枚を叩いて指輪を買うとか、思い切って車を買い替えた、と言うような大ごとを構えてと言うのではなくして、ちょっとした日常に、〈癒し〉の瞬間があって、それに出会った時に、ストレスが解消されていく、これがストレス解消の金メタルではないのかなー、なんて思ったりしているのですよ。

 

と言う事でして、政府が長い間なりふり構わず、精力をつぎ込んで、ようやく実現しかかったデフレ脱出。インフレ到来でどうなったのかと言うと、まずは衣食住を始めとして、電気・ガス・水道・交通・通信費など、健保・介護・医療・教育など、はたまた国防費・災害防止や復興費などなど、あげれば切りがない、途方もない値上げのラッシュ、これじゃーデフレの時の方が、もっとましだった、暮らし易かったと言う声が上がったとしても、あながち無理がない状況となって参りましたよ。ほんまに、国会議員の先生らのやらはる事には、いちいちストレスを感じないわけには参りませんなー。

 

結果現在はストレスが充満している。精神的にも身体的にも、とにかくしんどい。全く厄介な社会であります。

この社会で、民衆の多くは、実にケナゲと言うほか、御座いませんな。ささやかな〈癒し〉を待ち焦がれているのですだよ。

正に、現在社会は〈癒し〉に焦がれる「癒しの時代」と言って良いのでは、と思うのですが。

少し以前には、女性は老いも若きも、口を開けば、〈可愛いー〉とやってましたね。今から思えば、〈可愛いー時代〉とでも称すべき時代でしなー。〈可愛いー〉は、今もなお続いているのでしょうが、これは、〈可愛いー〉が〈癒し〉の中で突出した形だったのではないのでしょうかね。

 

めったに見られない、ヒラメキの結論がこれですからね。

実に、情けねー! 

さぞかし、またまたストレスを感じられた方が、いらっしゃられたのではなかろうかと、小生自身がストレスを感じでいる次第であります。自作自演ですから、致し方御座いません。

ここで一句。

  ストレスを 無くすつもりが なお積り

駄作の一句が 癒しにならねー 恥の上塗り トホホホホ ・・・

 

どうもお疲れ様で御座いました。

これに懲りず、またのお越しをお待ち致します。

お後がよろしいようで。

《停念堂閑記》159

 

《停念堂閑記》159

 

「停念堂寄席」」96

  

 

「一歩前へ」

 

 

ようこそ、「停念堂閑記」へ。

よくお越し下さいました。厚く御礼申し上げます。

よほどおヒマなのでしょうか。他に行く所が無いのですか ? 

失敬、失敬。とんでも御座いません。ご多忙の中「停念堂閑記」をお開き頂きまして、誠に有難う御座います。どうぞ、ごゆっくりと、ヒマ潰しをなさって下さいませ。 

早速、恐縮で御座いますが、ここでの話は、相も変わらぬ、毎度毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う、略して「アバク」の三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリの、底、奥行きのメッチャ浅い、要するにヌケ ? な話です。 すみません、マが抜けてしまいました。まさに、マヌケな話で御座います。と言う事で、あまり期待はしないで下さいね。

もとよりしていないですって。

アノー、ですね、日本には、忖度(相手の気持ちを考慮すること)と言う文化があるのですよ。麗しい(?)文化ですよ。

ところが、現在は、忖度すると言うのが、いけない事の意味合いに感ずる方(かた)が多い様に見受けられますなー。おそらく、政治の場において、権力者に対する忖度が際立ち、弱者側に目を向けない場合が多く見られた所為(せい)ですかね。それで、一般的に忖度すること自体、歓迎されないことが、多くなった、と感ずるのは、独偏(独断と偏見の略語)ですかね。

特に、若者は、忖度が嫌いなように見受けられますが、そのくせ場の空気を読めよ、なんてことをよく耳にしますなー。マー、その時々の感情優先と言うことなのでしょうかねー。

しかし、日比憐休のマヌケな話とは申せ、多少の取柄もございますよ。それは、決して深刻にならないところです。夜、眠れなくなったりしませんからね。

蛇足ながら、小生は20歳代くらい迄は、人並みに一日8時間程度の睡眠が取れたように思いますが、30歳代以降なりますと、仕事が忙しくなって睡眠時間が取れなくなった、なんてな事は全然ありませんで、時間の余裕はたっぷりあったのですが、何がどうしたのかは存じませんが、往々にして就寝して3~4時間経つと目が覚めるようになりましてね。そうなるともう一度寝入る事が中々うまくいかず、浅い眠りで朝を迎えること(だからアサと言うのですかね ? )になり、睡眠時間が、精々一日4・5時間程度となったのですよ。

しかし、日中に特に眠気にかられる事は御座いませんし、昼寝しようとしても、眠れないのですよ。昼寝は不得手ですね。余程疲労が溜まっていれば別ですが、陽の高い時には、眠れないのですよ。そんな状態で50年程生きておりまして、特に、どうと言う事は御座いませんな。

ヌッ! 気づいててないだけか ?

眠っている間に、脳が色々な得た情報を整理しているとかなんとか良く聞きますが、その所為でしょうかね。物覚えが悪いのは。その代わり物忘れは良いですよ。この点のバランスは、ちゃんと取れているのですよ。睡眠不足の所為で、脳の整理が、雑になっていて、もうごちゅごちゃの状態になっちゃっているのかも知れませんなー。時々、お前、頭大丈夫か、とよく言われるのは、この所為かも知れませんなー。

寝ている間に、脳で色々な事柄の整理が行われていると言うのは、本当ですかね。時々、なんだか訳の分からない夢を見たりしますよ。脳よ、お前は、何の整理をしているのだ。意味不明だよ。オー、ノーってか。失礼いたしました。

更に、睡眠不足の人は、およそ1日8時間以上睡眠を取れている人と比べると、早く死ぬ確率が高いと言う話もよく聞きますが、モー、80歳を出ちゃってますからね。たとえ今死んじゃっても、あいつは寝不足だと言っていたから、やっぱり早死にしたなー。とは言われませんよね。この歳では。きっと、個体差があるのでしょうね。

本筋に戻します。ここでの「アバク」な話は、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

ただし、生真面目な(?)ところが、唯一、トビッキリの取柄(?)なんですよ。

ホンマかいな。どこが、真面目なんや ? ってですか。

たとえトンマなフザケタ話でも、真面目に取り組まなくてはいけませんよ。とにかく人間不真面目はいけません。

たとえ、ここでの話の真の目的が、単なるヒマ潰しでもね。 

なんちゅったって、真面目にヒマを潰さなくてはならないのですよ。ふざけていてはいけませんよ。ふざけるのは、話だけにして下さいよ。これだけは、しっかりと認識しておかなくてはなりませんねー。とにかく何をおいても真面目に真摯にヒマ潰しに取り掛らなくてはね。人の道に悖(もと)りますよ。

真面目を越すヒマ潰しは御座いませんよ。

あるお方が申しておられました。

ヒマ潰しにやることは、須(すべか)らくアホくさいものだと。

これは真実ですよ。キット。

毎度毎度の《停念堂閑記》がそれを如実に証明しておりますからね。科学的な論拠です。《停念堂閑記》が科学の範疇か ???  

さて、定年後の御同輩、きっと、持て余しているのでは。

毎日のヒマを。

お互いに、持て余しているヒマを、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ならないのですよ。これがリタイア後の最大の課題ですからね。当然、真面目にですよ。

しかしですね。これは、これで、なかなか、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙掛らなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

そうです。その通り。至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。 ご多忙な方、勝手な事ばかり言って、申し訳御座いません。お体には、くれぐれもお気をつけられて、お働き下さいませ。

と言うことで、本日も張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

どうです。この生真面目な姿勢。どこを切っても生真面目の金太郎飴。この真摯な生き方こそ、リタイア後のあるべき理想の姿とはお思いになりませんか。

ヌッ! 思わない! 

それはそれで、結構で御座いますよ。忖度は不要です。まー、好みは、人それぞれですからね。それで良いのですよ。キット。なんちゃってね。

それでは、参ります。

 

打倒! ヒマーッ!

エイエイ オー! A A O!  

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声でんなー。

情けねー! トホホ。 

 

さて、今回は、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う「アバク3原則」を踏まえて、なんと「一歩前へ」に関わる有意義(?)な話をしようと思うのですよ。

前以てお断りしておきますが、有意義な話は、往々にして、全然面白味が御座いませんよ。決して、ウソは申しません。この点は、トクトご記憶下さいませ。

ところで、このところ、ヒマに任せたダラダラ書きが、かなりひどくなっているのではないのかと言う反省が御座います。

ですので、今回は、言いたい事だけ言って、ちゃっちゃっと終えてしまおうと思っております。今回は、道草は御法度で御座います。

しかし、「停念堂閑記」の基本は、行き当たりバッタリであります。ですから、この基本をうっちゃらかす訳には参りません。どこぞの先生と呼ばれる方とは、この点が異なります。基本は、あくまでも貫かなければなりません。このあたりの覚悟が問題なのです。

初めに、お断りしておきますが、決して期待してはいけませんよ。全然面白く無いですから。期待して外れると、ストレスの元となりますからね。わざわざ手間暇かけて、ストレスの素(近くのスーパーで売ってますよ。最近ものすごく値上がりして、ストレスが溜まりやすくなってますから。)を買い込む事は御座いませんよ。要は、ヒマ潰しの素(「停念堂閑記」で手頃なものをご用意いたします。冗談です。)の「アバク」話ですからね。と言ったダラダラ与太話は出来得る限り省く事に致します。予想されるのは、いつもに増して面白みが全くなくなります。これは、マー「停念堂閑記」の特質ですから、仕方御座いません。バカだなー、アホちゃうかー、と笑い飛ばして下さいませ。

 

さて、ここで取り上げる「一歩前へ」は、モー、お察しの通り、男性用立ち小便器の真上の壁に必ずと言って良いほど存在するあの張り紙であります。女性の方には、縁が薄く、この存在をあまり存じないかも知れませんね

エッ、よく目にしているってですか。マー、そう言う場合もあるかも知れませんね。マー、あったからと言って、大したことでは御座いませんよ。天地ががひっくり返る事は御座いませんから。坊やを連れて慌ただしく男性用トイレに、駆け込んでくるお母さんを時々お見かけ致しますからね(このケースは、従来の社会通念として、マー、セーフでしょうな。これが、お父さんが、女の子を連れて、女性用トイレに駆け込もうものなら、これは一大事となり兼ねないご時世となりましたから、気をつけなくてはなりませんよ。男女平等なんて弁解しても、アウトですよ。キット。)。

男性用トイレには、子供用の背の低いものが用意されたりしていますが、坊やにとっては、大人用のが、憧れの的であったりしますね。見てろよ、そのうちでかいのでやってやるからなー、と心で呟いているのでは。

 

「一歩前へ」を今少し進歩させますと、「もう一歩前へ」あるいは「更に一歩前へ」となります。精々、これが限界です。これ以上要求いたしますと、ちょっと、厄介な事態が発生し兼ねませんよ。張り紙の意図に反して、極めて無残な状況となり兼ねませんから。ものには、程度と言うものが御座います。過ぎたるは及ばざるが如しで御座います。適度な位置で、慎重に、真面目にやりましょう。

 

ところで、近年、この「一歩前へ」の張り紙が、数を減らす傾向にあるとか。

そうなんですよ。分かり易く言ってしまえば、男性用立ち小便器が殊更場所を取るのは、如何なものか、と言うご時世になって来たのですだよ。そうです。男性専用なんて、偉そうにしている時代では無くなって来たのですよ。既に、一般家庭では、男性用立ち小便器は、ほぼ姿を消してしまっているのでは無いでしょうか。殆どが、座って使ういわゆる洋式便器に取って代わったと言って良い実情では御座いませんでしようか。

となりますと、「一歩前へ」は、最早、不要となったのですよ。代わって、「小便も座って」の張り紙に取って代わっているのですよ。清掃しなくてはならないサイドからすれば、至極当然の成り行きですよね。洋式便器で座って使用する場合、「一歩前へ」をやりますと、かえって悲惨な事態になるかもしれませんよ。

しかし、長年の慣れからしますと、座り小用は、何となく残尿感があって、実にスッキリしないのですだよ。マー、これも慣れでしょうから、なんだかだ言っているうちに、慣れるのでしょうがね。そうしたら、「小便も座って」の張り紙も少なくなるのでしょうね。

 

ところで、皆さん。国会議事堂のトイレを使用した経験が御座いますか。ある方は、「一歩前へ」の張り紙があったかどうかの記憶が御座いますか。小生は、使用したことが御座いませんので、正確なところは、存じませんが、やっぱり男性用の立ち小便器は、存在しているのでしょうな。正面には、やっぱり「一歩前へ」の張り紙があるのでしょうかね。今後、何かの折に、国会議事堂へお出かけの節は、是非とも、「一歩前へ」の張り紙があるかどうかを、ご確認下さいませ。

 

ところで、国会議事堂の男性用立ち小便器を、仮に撤廃するとなれば、やっぱり国会の決議が必要になるのでしょうかね ?  経費が必要になりますから、当然予算委員会の議題となるのでしょうね。何かの経緯で、ヒョッとして、ヒョッとしてですよ。国民の関心が、国会議事堂の男性用立ち小便器撤廃におよび、世論調査の結果、この廃止が国民が要望するトップに躍り出ると言う事態になった場合、政府はどうしますかネー。国会議事堂男性用立ち小便器撤廃法案を国会に提出することになりますかネー。

国会議員の先生達は、どの様な反応をしますかネー。各政党の反応は、どうなりますかネー。 派閥で賛否の票集めしなくてはならなくなるのでしょうか。派閥の再編成となりますかネー。

 

ヌッ! アホちゃうかー、ってですか ?

眠気覚ましのチョットしたジャブでんがな。失礼。

 

ところで、国会議員先生にこそ、「一歩前へ」の張り紙が、必要欠くべからざる存在であるように思えるのですよ。

そこで提案があります。国会議事堂の場合は、「一歩前へ」は男性用トイレだけではなく、議事堂の至る所に貼って貰いたいと思うのですよ。

出来ればですね、「一歩前へ推進会(仮称)」を結成して、張り紙だけでは無く、国会議員の先生の胸に、リボン・・・リボンはダメだね。青いリボンをつけている先生をお見かけしますが、何をされているのですかねー。活動の様子がサッパリ現れませんなー。

だから、チッチャいリボンではダメだね。デッカいド派手なアプリケか、でかい目立つバッチを、バッチリつけてもらわないと効果的ではありませんな。

とにかく、国会議員の先生方には、「一歩前へ推進会(仮称)」に入ってもらって、「一歩前へ」を実現させて欲しいのですよ。

アノー、ですね。勘違いなさらないで下さいよ。国会議員先生の中には、お歳を召されたお方々が多数いらっしゃるようですので、緊急の折に、すぐに役立つように、議事堂内、至る所をトイレだらけにしちまおうと言うのでは御座いませんよ。マー、それはそれで、役には立つ事でしょうが。

要するに、国会議員の先生には、兎に角、至る所で、「一歩前へ」と言う標語を目にして貰いたいのですよ。

トイレに限った事では御座いませんよ。むしろトイレは、次の次の次で良いのですよ。

 

モー、お分かりですよね。国会議員の先生に、政治意識を刷新して貰いたいと言うことなのですよ。

つらつら慮(おもんぱか)りますに、国民が国会議員の先生に切望していることは、まずは、政治意識を国民に向けて欲しいと言うことだと思われますね。国民に目を向けた政治を、と言うことですよ。国民第一の政治を、と言うことですよ。大事なところは、繰り返し繰り返し、しつっこく書き連ねる事が肝要です。なんちゃってね。

と言うことは、現職国会議員の先生の目は、どこ向いているのかな ? と言うことになるのですが、国会議員の先生の第一の関心は、なんと言っても、次回の国政選挙でしょうな。端的に申し上げますれば、国会議員の先生達の第一の関心は、次回の国政選挙で、先ずは自分が当選する事と自分の所属する政党の勢力拡大、実にこの一点でしょうね。与野党を問わず、この点が、現職国会議員の先生達の第一の関心事と見て、間違いないでしょうね。現職国会議員の先生の目は、専ら、常に選挙に向けられていますね。

このことは、モー、耳ダコで、今更何をとお思いになられる方が多い事でしょう。

問題は、国会議員の先生の取り組む課題は、実に山積みされておりますが、この対策は、常に選挙絡みでの発想・判断で進めらていると言って良いのではないでしょか。この基本が鉄壁ですから、全ての政策は、この基本の上で考えられる事になるわけです。

国の抱える重大課題は、国防、外交、人口、税金、物価、教育、医療、年金、健保、ライフライン原発、災害、等々まだまだ御座いますな。どれ一つ取っても、全部中途半端な状態で立ち往生している現状では御座いませんか。

この事態を突破する事が、実に「一歩前へ」の精神なのですよ。

そうです。選挙対策第一主義から脱出して、「一歩前へ」と突き進む事が肝腎なのですよ。

これまでの国政は、実に国会議員の先生の選挙第一主義によって運営されてきたと言って過言ではありませんね。政策の判断基準は、国政選挙にどう響くか、と言う点に置かれているのですよ。だから、大事な政策が、とにかくスムーズに進まない、と言う事態に陥っている様に思われるのですよ。これでは、国にとって、大事な事についての対策が、どうしても、進まないのですよ。この事態を脱する対策が、即ち。「一歩前へ」となるわけですよ。

 

今現在国民の望んでいる事と国会議員の先生のやりたい政策が、噛み合わない事がまま御座いますね。これは、分かり良く一般的に言ってしまえば、物事の指向については、それぞれの価値観、欲求、好み等の違いによって、一致しない場合が当然御座いますね。ですから、この食い違いの発生は、特に、珍しい事では無く、当たり前の事ですよ。

問題は、この食い違いに、国会議員の先生が、どの様に向き合うか、と言う事ですよ。

日本は言わずと知れた代表民主制によって運営されております。国民は、日本国家の運営については、国政選挙で選出した国会議員の先生に委ねているわけです。

ですから、言うまでも無く、国民個々人は、日常的に国政に直接関わるわけには行かないのです。直接関われるチャンスは、誰もがご存知の通り、国政選挙の時と、例えば憲法改正の賛否を問われた場合など、極めて限られた機会に制限されているのです。通常の政策は、国会議員の先生の手によって進められるわけです。

しかし、政治についての意見は、国民個々人が当然持てますし、広く主張したり、行動することは可能です。

多くの場合、国民個々人の意見は、テレビ番組など、メディアを通して広く報道されたりしています。小生の独偏(独断と偏見の略語)では、国民の意見として、メディアで取り上げられる事の多くは、今現在の目先の必要に迫られている事柄が、断然多い様に見受けられます。物価、医療、災害等々今現在の目の前で起きている困った事態に、早く対処して貰いたい、と言う声が、多く報じられている様に見られます。

 

この様な状況で、国会議員の先生は、どう動くか、と言う事ですよ。

この様な場での国会議員の先生達の活動は、次回の国政選挙の時に、とても大きな影響を及ぼしますからね。したがって、多くの場合、国会議員の先生達は、自分の選挙区の利益獲得のために、懸命に働くわけです。

これが上手く成就すれば、めでたしめでたしで、次回の選挙は万全と言う次第に落ち着くわけです。

しかし、国民の切望する事と、国会議員の先生がしたい事が、かみ合わない場合が当然あるわけです。

この様な場合に、国民の政治家不信が、一気に高まるわけですね。

たとえ、国民の切望する政策が、国会議員の先生に取り上げられ、法制が進められたとしても、国会議員の先生の対応が、いまいちの場合は、国民側からすると、その対策の実現が、兎に角、鈍い、遅い、トロイのですよ。特に選挙に直接影響しない政策については、国会議員の先生の活動は、積極的とはならない。これが、現職国会議員の先生方の明白な特徴と言えるでしょうね。

無論、これは国会議員の先生だけの所為とは言い切れません。当然、行政官僚側の問題でもあります。しかし、最終的には、政治政策は、国会を経て成立する仕組みですから、やはり国会議員の先生の活動に関わっているのです。

これが、実に時間が掛かり過ぎているのですよ。

つらつら考えてみまするに、その根元は個々の国民、直接的には有権者に有るのでしょうが、これはここでは一先ずおくとして、率直に言えば、国会議員の先生の政治に対する姿勢であろうと思われるのですよ。従前より常に指摘され続けているように、国会議員の先生の目は、国民のための政策に向いていない、と言う事です。専ら国政選挙対策の方に向きっぱなし、と言って良いでしょうね。

常に選挙絡みでの発想・判断ですからね。

だから、国民が希望する課題処理には、ストレートに進まないのですよ。必ず、選挙対策との絡みで、と言う発想・判断になるわけですね。この結果、国民の切望する政策は、遅々として進まない事が多いのですよ。常に選挙対策とニラメッコして、国会議員の先生の都合による政策が進められると言うことになるのですよ。このスタイルで、日本の政治は、過去延々と行われて来ている現状なのですよ。

これで良いのでしょうか。

否。

この事態に対して、是非とも何らかの手を打つ必要があるのではないのでしょうか。

この対策として、今回お勧めしたいのは、モー、お分かりですね。そーなのです。

「一歩前へ」

と言う事です。国会議員の先生、選挙対策の発想・判断の枠を超えて、「一歩前へ」と言う事ですだよ。

政策判断上、過去の類似した課題処理の実績が、とかく参考にされる傾向が強いですね。参考にするのは、悪い事では御座いません。しかし、過去と同じ事を行っていれば、それで良いと言う事ではない。やはり、「一歩前へ」の姿勢がなくてはね。

国会議員の先生方も、平常は、国にとっての重要課題の対策に取り組んではいるのでしょうね。しかし、これが選挙対策との絡みで、時間ばかりかかっている現状ですよ。

そうこうしている間に、対処を必要としている現実、事態はどんどん、ドンドン先へ進んで行ってしまうのですよ。ようやく国会で一つの法案が成立した時点で、現実の事態は既にそのズーッと先に行ってしまっている事が多々あるようですよ。したがって、モタモタしなから成立させた法案は、既に現実にそぐわない、効果的でないものと化してしまっている事が、多く見受けられる、と言う事なのですよ。

このような事態を打開する必要に常に迫られていますね。

 

国の抱える重大課題は、多々御座います。

これ等の処理を、現職の国会議員の先生にお任せしなければならないのです。現状は、国会議員の先生による対策がなされない限り、ニッチも、サッチもいかないのです。現行代表民主制の大ピンチで御座います。

現在における国会議員の先生方々の最大の関心事は、国会議員の先生による選挙資金集めのパーティー、政治資金規制に関わる法制改革の課題です。この問題に国会議員の先生達は、四苦八苦の事態に陥っております。この課題については、国民の側から偽らざるところを申させて頂けるならば、言語道断、国会議員の先生等の身から出たサビ問題に他なりません。このサビ落としに、ニッチもサッチも行かぬ事態に陥っておりますね。現職国会議員の先生にとっては、なにせこれからの選挙に大いに関わる問題ですからね。国民サイドからすれば、先生方々、あんたら何やってるの。大阪弁では、何やってまんねん、と言う事ですよ。

メディアでは、国民の “政治不信”云々が、しょっちゅう取り上げられておりますが、これは結局は、政治不信と言うことになるのでしょうが、その前段階に “政治家不信” が横たわっているのでは、と思われるのですが。どうでしょ。

 

そこでこの様な事態を打開するために、「一歩前へ」の精神を、なおざりにしては貰いたくないのですよ。常に自覚していて貰いたいのですよ。

そこで、致し方ありません。国会議事堂の至る所に「一歩前へ」の張り紙を徹底的に貼り連ねなければならないのですだよ。ネッ、そうは思いませんか。たとえば、派閥のパーティー、裏金作り、政治資金規正に関わる問題についての国会議員の先生の方々の失礼ながらこのテイタラクを見せられると、本当に嫌になってしまいませんか。このような事態になっても、まだ、選挙資金の獲得に、あの手この手を潜ませておく手立てに余念がないように、見えてならないのですが。

とにかく、今まで続けてきている、国会議員の先生の政治姿勢を根底から考え直す方向へ、現状を打破し、「一歩前へ」を期待するよりないのですよ。

 

今回のテーマは、カスー! 大ハズレでしたね。話が、全然面白くないですなー。単なる半惚ジジーの愚痴でんがな。

これじゃー、ダメだね。次回を狙って、半惚ジジーも「一歩前へ」と言うことですなー。実は、この「一歩」が、最近は、大変なのよ。とにかく足腰が痛くてさー。ホンマ。

 

すんません。今回は、これで終わらせて頂きます。

どうも、お付き合い、有り難う御座いました。

お疲れ様で御座いました。

お後がよろしい様で。

《停念堂閑記》158

《停念堂閑記》158

 

「停念堂寄席」」95

  

 

「何でこーなっちゃってるの!」

 

 

ようこそ、「停念堂閑記」へ。よくお越し下さいました。厚く御礼申し上げます。

よほどおヒマなのでしょうか。他に行く所が無いのですか ? 

失敬、失敬。とんでも御座いません。ご多忙の中を当サイトをお開き頂きまして、誠に有難う御座います。どうぞ、ごゆっくりと、ヒマ潰しをなさって下さいませ。 

早速、恐縮で御座いますが、ここでの話は、相も変わらぬ、毎度毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う、略して「アバク」の三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリの、底、奥行きのメッチャ浅い、要するにヌケ ? な話です。 すみません、マが抜けてしまいました。まさに、マヌケな話で御座います。と言う事で、あまり期待はしないで下さいね。

もとよりしていないですって。

あのーですね、日本には、忖度(相手の気持ちを考慮すること)と言う文化があるのですよ。麗しい文化ですよ。

ところが、現在は、忖度すると言うのが、いけない事の意味合いに感ずる方(かた)が多い様に見受けられますなー。おそらく、政治の場などにおいて、権力者に対する忖度が際立ち、弱者側に目を向けない場合が多く見られた所為(せい)ですかね。それで、一般的に忖度すること自体、歓迎されないことが、多くなった、と感ずるのは、独偏(独断と偏見の略語)ですかね。

ところが、若い方が、場の空気を読め、なんてよくおっしゃるのですよね。難しいね。世の中は。

しかし、日比憐休の話は、率直に言って、マヌケな話とは申せ、多少の取柄もございますよ。それは、決して深刻にならないところです。夜、眠れなくなったりしませんからね。

すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

ただし、生真面目な(?)ところが、唯一、トビッキリの取柄(?)なんですよ。

ホンマかいな。どこが、真面目なんや ?

たとえトンマなフザケタ話でも、真面目に取り組まなくてはいけませんよ。加トちゃんが申しておられましたが、彼の代表的なキャグ「ヒックション!」とか「加トちゃん ペッ!」と言うのが御座いますが、これは極めて単純なギャグですが、タイミングがとても大事なのだそうです。真剣に、タイミングを見計らって、真面目にやらなくては、お客さんには全然伝わらない、と加トちゃんが言っておられましたよ。

不真面目はいけません。

たとえ、ここでの話の真の目的が、単なるヒマ潰しでもね。 

なんちゅったって、真面目にヒマを潰さなくてはならないのですよ。ふざけていてはいけませんよ。ふざけるのは、話だけにして下さいよ。決して、言うより易くは御座いませんね。これさえ、しっかりと認識しておかなくてはなりませんねー。とにかく何をおいても真面目に真摯にヒマ潰しに取り掛らなくてはね。

真面目に勝るヒマ潰しは御座いませんよ。

あるお方が申しておられましたよ。

ヒマ潰しにやることは、須(すべか)らくアホくさいものだと。

これは真実ですよ。キット。

毎度毎度の《停念堂閑記》がそれを如実に証明しておりますからね。科学的な論拠が御座いますよ。 

さて、定年後の御同輩、きっと、持て余しているのでは。

毎日のヒマを。

お互いに、持て余しているヒマを、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ならないのですよ。これがリタイア後の最大の課題ですからね。当然、真面目にですよ。

しかしですね。これは、これで、なかなか。ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙掛らなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

その通り。至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。 

と言うことで、本日も張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

どうです。この生真面目な姿勢。どこを切っても生真面目の金太郎飴。この真摯な生き方こそ、リタイア後のあるべき理想の姿とはお思いになりませんか。

ぬ! 思わない! 

それはそれで、結構で御座いますよ。忖度は不要です。それで良いのですよ。キット。なんちゃってね。

それでは、参ります。

 

打倒! ヒマーッ!

エイエイ オー! A A O!  

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声でんなー。

情けねー! トホホ。

 

さて、今回は、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う「アバク3原則」を踏まえて、「何でこーなっちゃってるの!」と言う事を落とし所とする有意義な(?)話をしようと思うのですよ。

ところで、夜中の2時を回ると、決まってションベンで目が覚めちゃうのですよ。極めて中途半端な時刻なんですよ。一度目が醒めると、もう一度寝付くには中々難儀なのですよね。と言って、いっそのこと、起きてしまえ、と言うには、ちょっと早いのですよ。

そこで決まって、「停念堂閑記」、今日は何で行こうかなー、ってなことになって、暗闇の天井とニラメッコするハメに陥ることになるのですよ。

でも、半分寝ぼけている状態に近いですからね。中々、「これは!」、と言うテーマには出くわさないのですよ。大抵はね。

ところが、たまーに、この半ボケ状態で、これは行けるなーと思うテーマに出くわすことがあるのですよ。

半ボケ状態ですから、覚醒している時もそうですが、大したことは思いつきませんよ。但し、何の所為でしようか。半ボケでは幅のある広い思考はできず(覚醒時だってできないけれど。いちいち、お断りしなくてはならないのが、なんとも情けないですなー。)、一つ事を対象とする思考になりがちなのでしょうかね。一つことを追求するのに良い思考状態になる事があるのですよ。半ボケ状態で、これはいーぞ、と思っちゃうことがたまにあったりするのですよ。よっしゃ、これで今日のヒマ潰しは万全だ、なんて思ったりする事があるのですよ。

ところが、こんな時に限って、すっかり安心した所為でしようかねー。明け方小一時間グッスリと寝込んでしまったりするのですよ。正に熟睡、無意識状態に陥ってしまうのですね。当然、その間は、自分も他人も何もかも全部脳ミソから消え去りますね。まだ経験が有りませんが、死んだら、おそらくこんなんなのでしょうな。目が醒めないだけで。永眠とは、正にうまいこと言ったものと、つくづく感心してしまうのですよ。

と言うことは、熟睡状態には、長短があるが毎日なるな。と言うことは、毎日死んだと同じ状態を経験していると言うことになるな。てことは、死ぬ事をすごく怖がる人は多い様だけれど、大して怖くはないみたいだね。ただ、熟睡が継続しているようなもので、目が醒めないだけだから。なんちゃってね。まだ、死んだことは御座いませんがね。

なお、気を失った経験は御座いますよ。正に、熟睡と同じ状態になりましたね。気を失った後の感覚、記憶は全く御座いませんでしたよ。幸い、気を失うまでの記憶、気がついた後の記憶を失うことは、御座いませんでしたが。

待てよ。ひょっとして気が付いていないだけか ???

もっとも、これは、私の場合ですからね。他の方々は、また、それぞれでしょうからね。しかし、一度生まれたからには、一度は死ななくてはならないのでしょうが。

 

言うまでもなく、とびっきりのテーマは、目覚めたら、スッカラカン。何にも記憶が無いのですよ。ただ、良いこと思いついたのになー、何だっけなーと言う状態になるのですよ。こうなってしまったら、始末に負えませんよ。もー、絶対に思い出せませんからね。目覚めの気分の悪いことと言ったらありゃーしませんよ。ねェー。

私の脳ミソは、どーなってるのだ。記憶する事が、不得意だねー。実に。感動しますなー。

 

さて、世の中の現状は、周辺を見渡しますと、どこもかしこもシャッキっとしない事だらけで、不満、小言ありありだったりしてしまうのですよ。自然と、小言抗米まっしぐらですなー。

実に、ジジーの出番となるのですよ。私の脳ミソ、小言抗米は好きですからねー。当然のこととして、ジジーの特徴、かなりの時代遅れは免れませんがねー。

まー、結論は分かっているつもりですよ。

要するに、社会の動き・変化が速すぎて、最早ジジーは、付いて行くのがアップアップだー。時代の変化に馴染むのに、「時間がかかるなー!」と言うことに尽きるのですわ。

ところが、これに気がつかない方(かた)がおられるのですよ。特に、政治家先生と呼ばれている方にですよ。もー、とっくに社会の動きについて行けなくなっているのに、古い常識・慣例から抜けられない方が。すぐに具合が悪くなると記憶を無くしてしまう方が、委細かまわず、議員の席にしがみついておられるのですよ。いい加減に、頼みますよ。ホンマ。

 

さて、今回は「何でこーなっちゃってるの!」ですからね。ちょっと、ゴロが良くないでしょー。

本当は、初めは「何でこーなるの!」で行きたかったのですよ。しかし、以前の欽ちゃん番組のパクリになってしまっては、と思いましてね。

そーなんですだよ。根が生真面目なもんですからね。誰も言ってくれない場合は、自分のことは自分でやらなくてはね。年取ったからと言って、他人に手間をかけさせるわけには参りませんよ。

パクリはどーもね。十分気配りしたに拘らず、パクった結果と同じだった場合もない事はないでしょうがね。故意にやるのはいただけませんなー。

しかし、意識的にパクったところで、欽ちゃんレベルと違いが大き過ぎますからね。残念ながら、はっきり言って、欽ちゃんの様に面白くは行けませんよ。欽ちゃんと年恰好は、殆ど同じですが、笑いの感覚は全然違いますからねー。比べないで下さいよ。そんな、ムダな事はしない様にお願いします。こっちとーらー、ヒマ潰しが本命ですからね。そもそも目的が全然違うのですから。くれぐれもお間違えになりません様に。

間違える訳ねーだろう、ってですか。どーも、ご尤もなことで。

 

さて、「何でこーなっちゃってるの!」と言う事に関して、それ、あれですよ、あれ。となって、中々出てこないのが、ジジーの特質なんで御座いますよ。スーッと出て来ては、ヒマ潰しになりませんからね。時間稼ぎをしなくてはね。中々骨折するのですよ。ここは、骨が折れるのですよ、と行くのをこの様に、訳の分からないことを言って、時間稼ぎをしなければならないのですよ。真面目にやるには、骨折するのですよ。骨が折れるのですよ。

ところで何でしたかね。話の本筋。下らない時間稼ぎをしている間に、本当に忘れちゃうのですよ。弱ったね。どうも。

エーとですね。エーと、アレだよ、アレ。アレはエーと、オット、そーだ、そーですよ。慣習と言うのでしょうか、習わし、仕来りと言う様な事ですよ。要するに、言わば世間で常識的に行われている事、こう言う時には、こうやるのさ、と言ったいわば決まり事のようになっている事ですよ。大して意味のない様な事が、当然の様に、まかり通っていましてね。これを外すと、えらく非難されたりすることもあるのですよ。こんなことをネタに、ヒマ潰ししょうと言うのですよ。

 

さて、今回のテーマは、「何でこーなっちゃってるの!」ですからね。どうして、「何でこーなっちゃってるの!」になったのかってですか ?  それは、ヒマ潰しの話題として、使えるのでは、と思ったからですよ。ただそれだけのことで御座いますよ。

ほんとーか ? ってですか。なんぞ魂胆があるのでは無いのかってですか。かなり疑ぐり深い性格の様ですね。魂胆なんて、そりゃー無いわけでは御座いませんよ。ちょっと、少しだけあると言えば、無いこともないのですよ。

どっちじゃー。ハッキリせんかい。ってですか。

これはですね。本当のところを言えば、成り行き次第なのですよ。行き当たりバッタリなのでね。

また、ダラダラと意味の無いことをってですか。そーなんですよ。これが、ヒマ潰しのコツなんで御座いますよ。小まめにね、やらなければね。ヒマ潰しにならないのですよ。

おっと、期せずして、小まめが出ましたね。ちょっと、白々しいですが、そうだ、ここは、小まめで行くことにしますよ。ヒマな日比憐休も歩けば、小まめに当たる。てなもんですなー。気楽に参りましょう。

そうです。ヒマ潰しは、気楽にですね、ただし、まめまめしくやる必要があるのですよ。

ホレホレ、マメと言えば、やっぱり節分の豆撒きに決まってますよね。誰が決めたのか、ですって。そーです。そこが問題なのですよ。「何でこーなっちゃってるの!」と言うことなのですよ。

「小まめ・まめまめしく」と節分の豆との関係はよくは存じませんが、ここは、マメ繋がりと言うことで、気侭に参りましょう。

今年の節分は(2月3日)、モー過ぎてしまいましたがねー。しかし、ヒマ潰しには、過ぎてしまおうが、そんなこと、一向に御構い無し。全く気にはしませんよ。

強引に持って行くなー、ってですか。

そーです。時には力技が必要なのですよ。肩透かしも良いですがね。今回は、力技で節分の豆撒きで行かせて頂きますよ。

節分にどうして豆を撒くのかね ? 「何でこーなっちゃってるの!」と言うことで御座いますよ。

節分の豆撒きについては、もー、たちまちダラダラ書きになってしまいそうです。ですから、いつものように、ダラダラでいい加減に書く事とにします。堅い事は抜きで参りますよ。と言いつつも、やっばり「何でこーなっちゃってるの!」のがテーマですから、どうなります事やら。どの方向に進むかは、何の指針も御座いません。とにかく行き当たりばったりが、ここの話のモットーで御座いますからね。コンコン馬ですわ。

コンコン馬って何だ ? ってですか。そー来られると、困っちゃうのですよ。これが自分で書いておきながら、何だかハッキリしないのですよ。どこかで、出会った気がするんですがね。どーもハッキリしないのですよ。

なんか織田信長の少年期の話として、ひょっとしたら司馬遼太郎さんの小説だったかなー。そのあたりの事は、全くハッキリした記憶がなくなってますが。とにかく、どなたかがお書きになった小説で、コンコン馬に巡り合った様な気がします。

信長は少年期には、同じ年頃の遊び仲間を引き連れて、あの紐でぐるぐる巻きにおっ立てた髷、腰に必要七つ道具をぶら下げたスタイルで、活発に馬で野山を駈けずり回っていたと言うことで、その様な信長をコンコン馬と称したと言うらしいのですよ。

その意味はと言うと、コンコンは言うまでもなくキツネのことです。要するに、キツネが馬に乗って、駆け回っている情景を言っている様です。どこをどう走り回るのか、分かったものではない、という譬ですなー。少年期の信長の日常行動を示す表現の様です。

ここでは、行き当たりバッタリで、話がどちらを向いて進むかは、分かったものでは無いとう事の表現として、ふと、頭に浮かんじゃったのですよ。しかし、記憶がねー。まー、あまり当てになる話では無い、とご理解いただければ、と思う次第です。本当のところは、言わずと知れたヒマ潰しです。悪しからず。

 

行き当たりばったりで、期せずして、司馬遼太郎さんに出会ってしまいましたが、司馬さんのお書きになられたものは、かなり読まされましたね。司馬さんの小説の面白味は、よく本筋から外れた話をお書きになっておられるところですね。ヒマ潰し話にちょっと似通ったところがあるのですよ、と勝手に思い込んでおります。司馬さんには、ご健在であれば、キット迷惑がられると思いますが。

以前にも、書いた事がありますが、学生・現役で活動していた頃は、暇があれば神田の古書屋街をぶらついたものです。自分の欲しい本が、どこの本屋さんのどこの棚に置かれているか、値段とともに熟知していましたよ。貧乏で買えなかったのですよ。情けねー。

何かを調べる時は、普通は図書館へ行くものでしたよ。学生の頃ははよく国立国会図書館へ出かけましたね。ここは、大抵の本を持ってますからね。江戸幕府が持っていた古記録、古文書の類も持っていましたからね。

朝、開館の1時間前くらいには、千代田区永田町まで出掛けて行きましたね。それでも先客が既に並んでいたりしましてね。あのー、蛇足ながら、人気のラーメン店の話では御座いませんよ。

それで、開館時刻が来て、ようやく入館できると、ここでは、閲覧は指定席ですることになっていて、入館時に閲覧席が決められました。そして、閲覧したい本の整理番号を、幾つも並べられているカードボックスで見つけ出し(これが結構時間が掛かるのですよ。)、請求事項を指定の申し込み用紙に記入して、貸出窓口へ持って行くのですよ。そして、請求した本が出てくる迄には、およそ1時間程は要するのですよ。目的の本を借り出して手にする迄に、一苦労なのですよ。

今も、そーなのかなー。今は、小型の平べったい器具で、必要情報を検索すれば、事足りるのでしょうな。上手くやれば、AIさんが論文まで仕立ててくれるご時世ですから、わざわざ国会図書館まで出掛ける方は、かなり減少しているのではなかろうかと思われますが・・・。

ある時、疲れたので、ロビーの長椅子に横になっていたところ、すぐに職員の方がやって来まして、横にはならないで下さい、と注意された事が思い出されますね。行儀の悪いことを仕出かし、すんませんでした。食堂はよく利用しましたね。一品一品のメニューのカロリーが明記されてましたね。価格も安く、助かりました。

国会図書館はその名称の通り、国会議員が調べ物をする施設の意味合いを持っています。そのための広い専用閲覧室が用意されてましたな。小生の行った時には、何時も、議員さん、秘書さんらしき方のお姿は見かけませんでしたが。一般利用者は、一般利用者用の座席が満席の場合は、それが空くまで、順番待ちをしなくてはならないのですが。議員さん用の部屋は、たいていだーれも使っておらず、無人でガラーンとしていましたね。国会開催中には、秘書さんが、すっ飛んできたり、徹夜で調べ物をしたりするのでしょうかね。そんな事しないか。関係各省庁の担当の方が、国会で質問される、また、されそうな事柄を予め調べ上げて置くのでしょうな。もっとも、国会図書館でなくとも、各省庁でかなりの規模の図書館を持っていますから、そちらで、事足りるのでしょうかね。今は、ネット情報で事足りるのかな。便利な世の中になりましたなー。国会でスマホを使うのはご法度なのでしょうね。答弁にあたり、担当大臣が、スマホで検索しだしたりしたらねー、・・・。そんなことはないでしょうなー。

そんなこんなで、私の学生の頃は、とかく国会図書館に限らず、図書館では目的の本を手にするまで、結構、時間・手数がかかったのですよ。こんな事情が御座いましたので、図書館へは向かわずに、いきおい神田古本屋街へ足が向いちゃうのですよ。いわば、神田古本屋街は、実に充実した図書館的存在だったのですよ。

ここは、借り出すための時間・手続きは不要でしたよ。高価で手の届かない本は(書棚の高いところに置いてあったわけでは御座いませんよ。)、コッソリと盗み読みし、内容の要点を覚えて、買わずにトンヅラ出来たのですよ。スマホで、こっそり写真を撮ったりはできない時代でした。今は出来るからと言って、古書に限らず、その他のことも、盗撮はいけませんよ。ちゃんと、許可を取らなくてはねー。

また、古本屋さんでは、図書館ではしてくれないサービスが御座いまして、お金を出せば、欲しい本を売ってくれるのですよ。図書館ではいくら金を出しても、売ってはくれませんでしたよ。とにかく神田の古本屋さんには、大変お世話になりましたねー。

ある時、甲州関係の事柄を調べる必要がございまして、この手の古書を沢山集めている某書店に参りましてね。欲しい本が何点か有りましたが、あいにく何時もの様に持ち合わせが足りず、買えなかったのですよ。それで、数日後に、有り金持参して、某書店に出掛けましたところ、先日並んでいたお目当の古書が、全部無くなっているのですよ。どうした事かと、店員さんに尋ねましたところ、ここからここまでの書棚にあった本は、司馬先生が全部お買い上げになられました、と言うではないですか。半端な冊数でありませんでしたよ。ゆうに数百冊は御座いましたよ。ビックリですよ。司馬さんは、こんなやんちゃな事をやっておられるのだと驚きましたね。司馬先生も、やっぱり、国会図書館より神田古書屋街が使いよかったのでしょうかね。間も無く、『武田信玄』が発表されましたね。あれだけの書物に目を通されていれば、そりゃー本筋から離れた面白い話を書きたくなるでしょうね。ひょっとしたら、コンコン馬も、どこかで見付け出したのかも知れませんね。

またもや、ヒマ潰しのダラダラ書きでした。すんません。

 

今回、「何でこーなっちゃってるの!」関係で問題にしたい事は、簡略に言えば「 節分とはなんだ ?」、「節分に、なぜ豆を撒くのだ ?」と言う事ですよ。

まず、節分についてですがね。節分とは何なのでしょうね。

こういう疑問については、もー、国会図書館へ出向く必要は、御座いませんね。インターネットが便利ですから。早速、検索してみましたところ、凄く分かりやすい情報が提供されましたよ。「節分とは文字通り季節の分かれ目のことで、昔は立春立夏立秋立冬、それぞれの前日のことを節分と言っていました。」と言う情報が提供されましたよ。

たまたま、小生が検索した結果では、「昔は、立春立夏立秋立冬の季節区分があり、それぞれの前日を節分と言った。」となっていますが、手元の手帳のカレンダーでは、今年は、2月3日が節分、翌4日が立春と書かれています。だから、昔では無く、今も節分と立春は以前と同じ扱いとされていますね。ネット情報は注意深く扱いましょう。なんちゃって。嫌味かねー。

ところが、小生の手帳のカレンダーには、5月5日は立夏、8日7日は立秋、11月7日は立冬の記載がありますが、各その前日には節分の記載がありません。

すなわち、現在は、立春とその前日を節分とすることは、行われているが、立夏立秋立冬の前日を節分とすることは、一般には行われていないようです。

と言うことは、独偏(独断と偏見の略語)では、立春の前日の節分は、多分、季節の区分というよりは、後で述べる「豆撒き」を知らせる意味の情報となっているのではなかろうかと、思われるのですが、いかがなものでしょうか ?  どーだか ? ? ?

ということで、節分は、春・夏・秋・冬と言う季節の別れ目を意味するものだ、と言うことですね。もっとも、年間を24季節に分ける考え方が御座いまして、その中から、立春立夏立秋立冬と言う4季節を取り出して、生活に役立つ情報として使っていると言うことなのでしょうね。24節季については、これに引っかかりますと、ダラダラ書きこの上無しの事態に陥ること間違い御座いませんので、ここでは触れることは致しません。

なお、ネット情報によりますと、季節の別れ目として節分と言うのが始められたのは、「昔」だそうです。

ネット情報は、気をつけなければなりませんよ。しょっちゅうフェイクが当たり前となっていたりしますからね。しかし、ここの情報は、間違いないですな。「昔」のことと言うのは、信ずるに足りますね。間違いおまへん。具体性は全く御座いませんが、ウソとは言えません。本来の疑問に対する答えとなっているか否かは、さておくとして、ここではこの情報を信用することにして、あえて深く追求する事は致しません。節分(蛇足ながら、ここでは豆撒きの事を意味していません。季節の別れ目と言うことです。)の起源について、とやかくツッツキ出しますと、いくらヒマ潰しとは申せ、ダラダラ書きが、止まらなくなりそうですので、ここでは、キリッと、節分は、「昔」からあった、と言うことで、通り過ぎることに致します。通り過ぎたく無いお方は、どうぞご自分でお調べ下さい。なお、ネット情報には、くれぐれも気をつけて、慎重に対応して下さいませ。余計なお世話で御座いますが。

 

さて、次に「何でこーなっちゃってるの!」に関する疑問の一つは、なぜ節分に豆を撒く事になったのか、と言う事であります。

節分に豆を撒く事になった慣習の起源についてですが、前述した様に、節分は、立春立夏立秋立冬との前日とされています。ところで、現在、豆を撒くのは、立春の前日の節分に限られている様ですね。小生は、立夏立秋立冬の前日にも豆を撒くか否かについては、調べた事が御座いませんので、確かな事は何も言う事ができません。気になるお方は、どうぞご自分でお調べ下さい。なお、ネット情報には、くれぐれも気をつけて、慎重に対応して下さいませ。余計なお世話で御座いますが。

現在は、節分の豆撒きは、立春の前日に行うのが一般的になってますね。節分の豆撒きと言いながら、どうして立春の前日の節分にだけ豆撒きをするようになったのでしょうかね。「何でこーなっちゃってるの!」となるのですよ。

これについては、ネット情報によれば、いろいろなご意見が見られますが、季節の変わり目には、伝染病や災害が起こりやすい。要するに、立春の前日の節分は、時節的にまだ寒く、体調を崩し易い時節だったから、伝染病や災害を追い払いたいと言う願いがあった。そこで、伝染病や災害を鬼に見立て、それを追い払う目的があって、豆を撒いたのだ、と言う意見がありますよ。

一見納得させられるようになるかもしれませんが、何だかよく分からないところが御座いますね。もし、それならば、立夏立秋立冬の前日の節分だって、季節の変わり目で、伝染病や災害の起き易い、体調を崩し易い時節ですよ、と言う屁理屈を言いたくなってしまうのですよ。

また、何故に、伝染病や災害をいきなり鬼に見立てる事になったのでしょうな。伝染病や災害を引き起こす悪が存在するとすれば、その代表が、なにも鬼でなくったって、妖怪だって化け物だって、良さそうなものですよ。鬼さんだけ、いい迷惑ですだよ。

またまた、豆をまく時には、大声で「福は内、鬼は外」と言う事になりますから、鬼は、福の反対の立場に位置付けられてますな。それならば、福の反対なら鬼ではなく、禍(わざわい)、災いとでも言った方が良いですよね。

エッ、禍はゴロが良くないってですか。確かに、ゴロは禍より、鬼の方が優ってますな。と言うことは、鬼に落ち着いたのは、ゴロが良かったと言う事に由来したと言う事ですかな。卓越した新説登場ですな。? ? ? かな。このことは、ネット情報には、まだ見られませんよ。

ヒマ潰しのタワゴトで御座います。失礼致しやした。

 

ところで、伝染病や災害を追い払いたい、と言う願望は常にあったようですな。これに関しては、ネット情報では、「追儺(ついな)」と言われる古来中国の宮廷で大晦日に行われていた鬼を払う行事があったそうです。日本へは奈良時代頃に伝わり、旧暦の節分は大晦日に当たるため、新しい年を迎えるにあたり、厄災を払う伝統行事として、定着しました。とネット情報に見られます。

奈良時代頃」と言うのは、「頃」が付くと、時期がはっきりしない表現となり、奈良時代だけではなく、その前後の時代も含まれるのか、とも解釈もできちゃったりするのですよね。。そうなりますと、えらい長期間になりますな。これくらいの長期を想定しておけば、外れはないか、と言う事になりますかね。オイオイ、言葉尻をとった、屁理屈はよせってですか。これが、ジジーの楽しみ。悪い癖なんですよ。悪しからず。

 

また、ネット情報では、「古くから季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると言われ、平安時代には邪気を祓う追儺(ついな)という宮中行事も行われていました。別名、鬼儺(おにやらい)とも呼ばれています。この儀式が現代の節分行事のルーツになったと言われています。」ともされていますよ。

またネット情報では、豆まきは、もともと中国明時代の風習で、日本に伝わったのは室町時代だ、ともあります。

さらに、なぜ大豆をまくのかについてはさまざまな説があるが、「魔を滅する」から「魔滅(まめ)」になったという説が一般的だろう、との事です。ネット情報は面白いですね。

前に紹介したように、豆撒きは、中国明時代の風習で、これ室町時代に日本に伝わった、と言うことは、既に、中国では明時代に、「魔を滅する」から「魔滅(まめ)」になったと言うダジャレをやっていたと言うことになりますね。明時代の中国人の中には、実に日本的ダジャレの達人がおられたようですな。卓越した見解ですな。いよいよネット情報ファンになってしまいそうですね。ネット情報は、とにかく自由ですなー。

さらに、豆撒きの豆が、なぜ大豆となったかと言うと、「日本では、古くから米、麦、ひえ、あわ、大豆には”穀霊”と呼ばれる精霊が宿っていると考えられていました。そのなかでも大豆はもっとも粒が大きく、ほかより多くの精霊が宿るとされています。そのため、鬼の退治に最適とされ、豆まきによく使われているのです。」と言い切ってますね。幾分意味不明では御座いますが、ネット情報は、迷いが御座いませんな。キッパリと言い切ってますからね。

大体、豆撒きには、大豆を炒って使いますが、このような精霊の塊(かたまり)の大豆を炒ってしまって良いのですかね。オマケに、食べちゃうのですよ。なんと言う御無礼を。節分の豆には関係御座いませんが、「ポッポッポ ハトポッポ 豆が欲しいか」の豆も大豆ですよね。大豆の精霊の行く末は、ハトポッポの糞と化するのですな。ああ勿体無い、勿体無い。バチが当たりはしませんかね。

なお、豆撒き用の大豆はなぜ炒るのかと言うと、こんな話が紹介されています。

「昔、人を食べる鬼がいて、困った人々は神様に泣きついた。そこで神様は「この豆から芽が出たら人間を食べて良いが、もし出ないうちに人間を食べたら罰を与えるぞ」と鬼に豆を渡したという。「たやすいこと」と、畑に豆を撒いた鬼だが、いくら待っても芽が出ない。なぜならその豆は炒ってあったからで、この後鬼が人を食べることはなくなったという。」。中々素直な鬼さんではあります。さすれば、鬼は農業をやっていたのですね。農民だったのだ。知らなかったー。

なんかユニークな神様がおられたようですね。鬼を騙したのだってさー。神様は、万能だから、鬼を騙してもとやかく言われる事がない存在であります。他の者が、他人を騙すと、とにかく、マスコミが黙っておりませんよ。そしたら、警察が動く事になりますからね。とっ捕まってしまいますよ。

騙された鬼は、詐欺にあったようなものだね。鬼は、人を食わなくなったのだって。もしも、炒り方が不十分なのがあって、これが発芽したら、鬼は人喰いを神様から公認されたことになりますなー。そんな訳で、節分の大豆は、徹底的に一粒残らず、完璧に炒っておかなくてはならないのですよ。

そもそも、鬼は人を食ったのかね。鬼ヶ島に乗り込んだ桃太郎の場合は、食われる危険があったのは、人間の桃太郎だけで、お供の犬、雉、猿は食われる心配はなかったのかね。また、桃太郎は、武器として、炒り大豆を持参したと言う話は、あまり聞きませんな。持参したのは、キビ団子です。大豆は持って行かなかったようですね。ヒマ潰し話でした。

また、節分に撒いた大豆は、年の数だけ食べるようにと言われますね。これも、「何でこーなっちゃってるの!」と言うと、「地方によっては節分を「年取りの日」と言って、この日に一つ年をとると考えていた。そのため、年の数だけ豆を食べるという風習が生まれたのだろう、だって。節分は、旧暦では大晦日でもあるからね。ちゃんと、理由が示されていますよ。

しかし、歳の数だけ豆を食べると、どうだと言うのでしょうね。

また、歳の数以上に豆を食べちゃった場合は、どうなります。勿論、食べた分だけ、早く歳をとってしまうのでしょうか。少なく、一粒だけ食べた場合は、生まれたばかりの赤ちゃんに、戻ってしまうのかなー。とりあえず、気をつけましょう。

なお、このような見解に、横槍を入れるのは、無粋極まり御座いませんが、蛇足ながら、正月のおせち料理に黒豆がなぜかしっかりと鎮座なさっております。おせち料理の中でも、最後まで、頑張っておられる存在のようです。こちらも厄除け、鬼退治に関係しての事かと思いましたが、こちらは、ネット情報では、「まめまめしく過ごしましょう」のダジャレ的な事で、疫病退治のことは、一切出ておりませんでした。節分の大豆と、おせち料理の大豆は、なんら関係のない別物のようで御座いますよ。

なおまた、今は節分に撒くマメは、一般的には大豆と言うことになってますな。しかし、北海道では、大豆をいっぱい生産しているのに、皮付きの落花生を用いるのが、今は一般的になっている様ですよ。道産子は、大豆より落花生が好きなようですなー。撒いた後で、殻付き落花生の方が拾い易い利点は御座いますな。

大豆と落花生では、かなり意味合いが違いますよね。落花生に精霊は宿っているのかね。

また、北海道では、古い慣習に従わなくても、あまり気にしないところがあるのではないのかと思われますね。独偏(独断と偏見の略語)ですが・・・。

多分、撒いた後で、拾って食べるのは、落花生の方がいいんでないかい。となったのではないでしょうか。と言うのが独偏(独断と偏見の略語)の感想で御座います。

当然、北海道の鬼は、ぶつけられた落花生を畑に蒔いて、早く目を出せ落花生、となるのでしょうが、こちらも炒ってあるので、発芽はしませんなー。豆撒きは、もー随分以前から、長いことやっているから、鬼だって、芽は出ねー、と言うこと知っているよね。おそらくねー。

 

と言う次第でありまして、甚だ、良い加減では御座いますが、節分の豆撒きに関わる「何でこーなっちゃってるの!」は、一件落着で御座います。

 

ところで、ここからがややっこしいのですが、だからどうだ、と言う問題が残っている訳です。

セッカチに結論を急げば、要は、例えば、節分の豆撒きだけではなく、社会には色々様々な慣習、仕来たりがあり、これ等がいわば社会を形成しているところがある。すなわち、我々は、この様な環境で、生活を続けている、と言う事なのですよ。もっと、分かりやすく言えば、私たちの日々の生活に、この様な慣習や仕来たりが深く関係している、と言う事ですよ。

注目されることは、例えば、節分の豆まきのように、正確には、なお不明な点が多いけれど、大さっぱに言えば、千年もまだも以前に考えられていた事が、なんと現在に到るまで、全く同じ考えとは言えないけれど、概ね継続され、慣習となって、社会の一部分を形成している訳ですよ。

 

この様な環境で、我々は、色々な慣習を踏襲し、日々の生活を送っていれば、あまり不都合を感ずる事も少ないのかも、知れませんね。

しかし、時に、慣習の励行は、厄介だなー、何の意味があるのだー、と感じたりする事が、御座いませんか ?

と言う時に、「何でこーなっちゃってるの!」 と考えてみるのはどうでしょうかね。

慣習は、こうなる迄には、当然それぞれ、それなりの理由、事情があってのことなのでしょうがね。しかし、意味のない事に付き合わされるのは、これはこれで中々難儀な事ですよねー。皆さんはこう思うことは、御座いませんか。私ゃー、しょっちゅうこのような事態に遭遇するのですよ。何だか意味がわからないけれど、昔からやってきた事なので、あなたも付き合いなさいよ。と言う、事態に時々遭遇しますよね。

また、反対に、個人レベルで見ますと、ややっこしい事に対しては、あまり考えるのが苦手だ。今まで通りで良いじゃないの。なんて、考えもせず、過ごしてしまう事が、多かったりしませんか。

一般に、この様な事が多く見られるのではないでしょうかね。

多少の難儀な点が見られても、これまでの慣性に従って、それはそれは辛抱強く、日々を送っていらしゃる方が多くおられる様に、お見受け致しますなー。

日本人は、基本真面目(?)ですからね。そして、日頃は、生活に追われて、日常の必要以外の事を考えたり、行動したりする事が、現実的に無理だ、と言う状況もありますよね。

と言う様な事で、現状に、幾分引っかかるところがあっても、惰性的に旧来の仕方に従いがちでは御座いませんか。

ところがですよ。国民が辛抱強くやっているのを良い事に、平然と良からぬ事をしている先生と呼ばれている方々が、いらっしゃるようでしてね。具合の良くない事が明るみに出て、取り調べを受ける羽目になっても、そんな事は知らない。記憶にない。などと白々しいウソと見られる言い訳に終始して、結局ごまかし通してしまう。実に、困った連中がいますね。国会に乗り込んで、盛大に、「鬼は外ー」とやりたくなったりしませんか。

だから、国政選挙の時には、慎重に、現状が「何でこーなっちゃってるの!」を考慮する必要があるのではないでしょうか。

時には、やはり一度立ち止まって、「何でこーなっちゃってるの!」をやってみた方が、よくは御座いませんかねー。

きっと、ただただ、慣性に従っているだけでは、ストレス解消とは行きそうに御座いませんよ。

ストレス解消のために、たとえ節分ではなくても、時々「鬼には外」を思いっきりやってみてはどうかなー。

 

何だか、良くはわかりませんが、ダラダラ書きも、結構疲れますので、今回はここまでと致します。

 

どうもお疲れ様で御座いました。

またのお越しをお待ち申し上げます。

お後がよろしいようで。

《停念堂閑記》157

 

《停念堂閑記》157

 

「停念堂寄席」」94

  

 

「時間がかかるなー!」 

 

ようこそ、「停念堂閑記」へ。よくお越し下さいました。厚く御礼申し上げます。

よほどヒマなのでしょうか。失敬、失敬。ご多忙の中お運び、どうも有難う御座います。 

早速、恐縮で御座いますが、ここでの話は、相も変わらぬ、毎度毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリの、底、奥行きのめちゃんこ浅い、要するにマヌケな話で御座います。と言う事で、あまり期待はしないで下さいね。

もとよりしていないですって。

あのーですね、日本には、忖度(相手の立場をわきまえる)と言う文化があるのですよ。現在は、忖度すると言うのが、いけない事の意味合いで使われる場合が多い様に感じますなー。政治の場で、一般的に歓迎されない状況で使用されことが、多くあった所為(せい)ですかね。

しかし、マヌケな話とは申せ、多少の取柄もございますよ。それは、決して深刻にならないところです。夜、眠れなくなったりしませんからね。

すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

ただし、生真面目な(? )ところが、唯一トビッキリの取柄(?)なんですよ。

ホンマかいな。どこが、真面目なんや ?

たとえトンマなフザケタ話でも、真面目に取り組まなくてはいけませんよ。加トちゃんが申しておられましたが、彼の代表的なキャグ「ヒックション!」と言うのが御座いますが、これはタイミングがとても大事なのだそうです。真剣に、真面目にやらなくては、お客さんには全然伝わらない、と言っておられましたよ。

不真面目はいけません。

たとえ、ここでの話の真の目的が、単なるヒマ潰しでもね。 

なんちゅったって、真面目にヒマを潰さなくてはならないのですよ。決して、言うより易くは御座いません。これさえ、しっかりと認識しておかなくてはなりませんねー。とにかく何をおいても真面目にヒマ潰しに取り掛らなくてはね。

真面目を越すヒマ潰しは御座いませんよ。

あるお方が申しておられましたよ。

ヒマ潰しにやることは、須(すべか)らくアホくさいものだと。

これは真実ですよ。きっと。

毎度毎度の《停念堂閑記》がそれを証明しておりますからね。科学的な論拠です。 

さて、定年後の御同輩、きっと、持て余しているのでは。

毎日のヒマを。

お互いに、持て余しているヒマを、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ならないのですよ。これがリタイア後の最大の課題ですからね。当然、真面目にですよ。

しかしですね。これは、これで、なかなか。ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

その通り。至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。 

と言うことで、本日も張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

どうです。この生真面目な姿勢。どこを切っても生真面目の金太郎飴。この真摯な生き方こそ、リタイア後のあるべき理想の姿とはお思いになりませんか。

ぬ! 思わない! 

それはそれで、結構で御座いますよ。忖度は不要です。それで良いのですよ。きっと。なんちゃってね。

それでは、参ります。

 

打倒! ヒマーッ!

A A O!  エイエイ オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声でんなー。

情けねー! トホホ。

 

さて、今回は、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う基本を踏まえて、「時間がかかるなー!」と言う事を落とし所とする退屈な話をしようと思うのですよ。

さて、世の中の現状は、周辺を見渡しますと、どこもかしこもシャッキリしない事だらけで、小言ありありだったりしてしまうのですよ。自然と、小言抗米まっしぐらですなー。

実に、ジジーの得意分野であります。当然のこととして、ジジーの特技、かなりの時代遅れは免れませんがねー。

まー、結論は分かっているつもりですよ。

要するに、社会の動き・変化が速すぎて、最早ジジーは、付いて行くのがアップアップだー。時代の変化に馴染むのに、「時間がかかるなー!」と言うことに尽きるのですわ。

 

この頃やけに目につくのは、例えばですね。会社で忙しく仕事をしている時に、もう12時なので、同僚が「昼飯食いに行こう」と声をかけると、かけられた方が、なんと「大丈夫」と返答するのですよ。最近のドラマによく見られる場面です。

要は、昼飯には、参りませんと言う意思表示の時に、「大丈夫」が使われいているのですよ。

ジーとしては、この流れで、「大丈夫」と言われると、なんやそれ、と感ずるのですよ。ジジーのこれまででは、この流れで、「大丈夫」と言う言葉は、通常使われないのですよ。

 

因みに、「大丈夫」と言う意味は、『広辞苑』では、「しっかりしている様。ごく堅固なさま。危なげのないさま。」とあります。インターネットで比較的利用者の多い『goo辞書』でも、「1 あぶなげがなく安心できるさま。強くてしっかりしているさま。 まちがいがなくて確かなさま。」と出ています。

だから、昼飯に誘われた時に、そもそも、その返答に「大丈夫」と言うのは、会話になっていないのですよ。

通常は、「苦しそうだなー。ちょっと休むか。」などと言う場面で、「大丈夫、続けましょう。」などと言うのが、普通ですよね。

例えば、この会社で忙しく仕事をしている場面で、12時なので、同僚から「昼飯食いに行こう」と声をかけられた場合、忙しいけれども「大丈夫」と応対して、よし昼飯行こうの意味で、「」大丈夫」が使われたのならば、違和感を感じませんがね。誘いをお断りする意味には取りにくいですよね。大丈夫とは、支障がないと言うことですからね。

ところが、最近のドラマなどでは、この様な場面では「行きません」の断りの意味で「大丈夫」が使われているのですな。時事に敏感な作家か脚本家の方が、この様な表現をいち早くとる様になったのかは、存じませんが、テレビの若いタレント・芸人さん達の会話では、かなり頻繁に、お断りする場面で、この「大丈夫」が使われておりますなー。

自民党の派閥政治資金問題に関わる政治倫理審査会における怪しげな議員さんの答弁では御座いませんが、作家・脚本家の方が先に使い出したのか、タレント・芸人さんが先に使い出したのか、はたまたどこかで学生さんが、ヒョイと使ったのがきっかけとなったのかは、小生には、その真相は記憶に御座いませんよ。

多分、タレント・芸人さんのどなたかがあやふやな使い方をしたのがきっかけで、他の方が真似しだした。そして、流行に敏感な作家や脚本家の方が、早速使用し出したのではなかろうかと、思われますがねー。

とにかく、最近は、この様な同意できない、お断りすると言う場面で、「大丈夫」が多用される傾向にあるのですよ。まー、すでに、これが一般的になってしまったのでしょうかねー。

なお、世間には、若者の文化、時の流れに乗り遅れては一大事と思っている中年、老年者は常に少なからず、存在してますから、それが適切か否かは大して気にせず、若者に迎合するのが一般的となっているのでしょうね。特に、テレビのアナウンサーや司会者にも、この傾向が強い様ですからね。おそらく、若い人を集めた番組では、言語の不適切使用をいちいち糾していては、盛り上がらない、番組が成立しない、視聴率が下がってしまう等々が心配されるのでしょうね。半ば、率先しているアナウンサーや司会者も見かけますがねー。この様な彼、彼女達は、きっと若者文化の最先端を走っているのでしょうねー。

とにかく、これが、すでに、一般的になってしまったのでしょーか。

まー、言葉は生き物ですから、その意味合いも、時とともに変化するのは、やむを得ませんがねー。

そこで、ジジーとしては、この事態に馴染むには、かなりの「時間がかかるなー!」と言う事態に陥ることと相成るので御座いますよ。そして、ようやく馴染んだ頃には、現実の事態は、既にとんでもない方向を呈しているのですよ。キット。情けねー。

 

話変わってですね。もー、馴染んできてますが、以前に「方(ほう)」をやたらとあちこちにくっつけるのが流行りましたなー。今でも使う方(かた)がいらっしゃいますが。

例えば、ラーメン屋さんで食事をして、代金950円を1000札で支払らおうとしたら、「お釣りの方(ほう)は、50円です。」なんてやられてしまうのですよ。なんじゃ。この「方(ほう)」と言うのは ?となるのですよ。「お釣りは50円です。」で十分通じてますよね。

若者の間では、この「方(ほう)」がくっつくと、丁寧な言い回しになるのだとか。

「お釣りは50円です。」で、「方(ほう)」なんぞつけられなくても、ジジーは何も失礼だなー、なんて感じませんよ。

「方(ほう)」は、通常は方向・方角などを示す時に使いますよね。いくつかの選択肢があって、その一つを選択する場合など、指定する時に使いますよね。

だから「お釣りの方 (ほう)」とやられると、別途、お釣りでない「方(ほう)」が、何かあるのかなー、なんて気を回すことになっちゃったりするのですよ。

「方 (ほう)」なんぞつけられたからといって、特別、丁重に扱われたなー、なんて全然感動しませんからねー。なんやー、変なのがくっついてるなーとは思いますがね。

しかし、この「方(ほう)」も、今となっては、既に、定着しているのでしょうな。時々遭遇いたしますよ。

また、料理の先生がよくお使いになられる「あげる」と言う言い回しが、気に掛かりますなー。

小生の独偏(独断と偏見の略語)では、「あげる」と言う用語は、例外はあるでしょうが、多くは人格を有するものに対する丁寧な表現として、もっぱら用いるものと心得ていたのですよ。

具体的に申しますと、例えば、小さな子供が何か重い物を持ち上げようと難儀している場面で、居合わせた大人が「重いでしょ。持ってやるよ。」とするところを「重いでしょう。持ってあげる。」と言うと幾分丁寧な表現となるのですよ。こんなこと誰でも知ってますよね。失礼致しました。

ところが、テレビにお出になる料理の先生の中には、例えば、大根の皮をむく時に、普通に言えば、「桂剥きにします」と言うところを「桂剥きにしてあげます」なんておっしゃられるので御座いますよ。海老の天麩羅を作る場面では、「海老に衣をつけて、油温度170度で揚げてあげます。」なんてね。「・・・170度で揚げます。」で十分なのにね。アゲの場合などは、「アゲを揚げてあげます。」てなことになってしまうと、なんやそれ、になってしまうのですよ。

また、「人参はまな板の上で乱切りにします。」で良いと思われるところが、「人参はまな板の上で乱切りにしてあげます。」てなことになるのですよ。丁寧な表現と思っておられるのですかね。人参には、人格が御座いませんから、丁寧に言われても、当の人参は何も感ずるところはないでしょうね。

ナヌ! 人参(にん参)には人(にん)の字が入っているから、人格が備わっている、ですって。それはちょっとにん識違い、と言うものでは御座いませんか。

それからやたらと「お」の字をつけますね。お大根、お人参、おネギなんてね。やっぱり野菜の方は、いくらゴマを擦って「お」の字をつけられても、何にも感じないでしょうな。

ナヌ!おゴマは、擦って使うから、良いのだってですか。ハハー、参りました。

ところで、食材の場合、お野菜は結構「お」の字をつける場合が多い様に見受けられますが、オクラに「お」の字はあまり付けない様ですね。「おオクラ」では、響きが良くないのでしょうかね。チンゲン菜も「おチンゲン菜」はあまり聞きませんね。ゴロが良くないのでしょうかね。「おとろろ芋」・「お小松菜」・「おアスパラガス」・「おカリフラワー」・「おゴーヤ」・「おズッキーニ」・「お高菜」・「おパセリ」・「おモロヘイヤ」等々は、まだちょと馴染みが薄い様な気がしますねー。

お魚の「お」の字は、聞き慣れていますが、お鯛、お平目、おイカ、おブリ等々はあまり馴染みが深くありませんな。竜宮城の場合だって、鯛や平目の舞い踊りを丁寧に、お鯛やお平目の舞い踊りとは、あまり聞きませんよね。

「鯵(あじ)」は、結構使えますねー。「お鯵のお味はいかがですかー。」なんちゃってね。

また、日本の食材には、「お」の字を平気で付けますが、外来品には、おキャビアとかおフオグラとかおトリュフなど言う丁寧な表現は、あまり聞いたこと御座いませんな。舶来品は、すごく珍重がられるのにね。どうしたことでしょう。語呂が悪いのかなー。

てなことでして、お料理用語には、時にシャキとしない場合が見受けられますが、頻繁に使えば、その内、馴染むのでしょうね。

しかし、かなり「時間がかかるなー!」と思われますね。

 

ついでに、言葉の発音に、かなりアレェーと感じられることがありませんか。

この頃気に掛かるのは、主に名詞の発音の場合、「○△」と言う言葉の時に、○の部分にアクセントを置いて発音する傾向になって来た様に感ずるのですよ。言葉によって、以前から○の部分にアクセントを置く慣例があるものもありましたよね。

例えば、橋と箸の様に、言い違えると意味が違ってしまうことになる場合がありますよね。

橋(は○し△)の場合は、「し△」の部分にアクセントを置いて、やや強めに発音しますね。

箸(は○し△)の場合は、「は○」の部分にアクセントを置いて、やや強めに発音しますね。

日本語の難しい点の一つですね。

ところが、最近、「家計」の発音が、ちょっと気にかかっているのですよ。

今までは、私の独偏(独断と偏見の略語)では、「家(か○)計(けい△)」は、△の部分にアクセントを置いて、やや上げ気味に発音するのが、一般的の様に思っていたのですが、最近は「か○」の部分にアクセントが置かれ、やや強く、「計(けい)△」の部分を低めに発音する様になって来ているのですよ。

因みに、『NHK日本語アクセント辞典』では、△にアクセントがある様に示されております。こちらは、従来、聞き慣れているので、違和感を感じなくて済むのですが、この頃は、○にアクセントを置く人がかなり多く見受けられて、違和感を感じるのですよ。特に、テレビで見られる料理の先生では御座いませんで、市況についてのアナリストと呼ばれているお方々は、決まった様に○にアクセントを置いて、話されるのですよ。なんか、違和感を感ずるのですよね。特に、某番組では、大学教員や研究所研究員、銀行や証券会社等から、市況についての専門家を招いて、色々とご意見を述べてもらうのですが、この方々は、決まった様に、「家(か○)計(けい△)」の「家(か○)」の部分にアクセントを置いて話されるのですよ。

ところが、番組を担当している司会者は、当該テレビ局のアナウンサーの方の様にお見受け致しますが、お招きした方々に対する忖度なのか、司会者の方も「家(か○)計(けい△)」の「家(か○)」の部分にアクセントを置いて話されるのですよ。伝染性が強いのでしょうかね。何ぞ、原因があるのでしょうか。

 

以前に、学生が授業が終わってから、質問があるんですけど、とやって来ましてね。「鎖国(さこく)」がどうのこうのと言う質問でした。この時に、「鎖(さ○)国(こく△)」を○にアクセントを置いて話すのですよ。小生は、△にアクセントを置く発音を長らくしてたものですから、かなり違和感がございましてね。生まれ育ちはどこかを尋ねたところ、九州福岡ですと言ってました。

これをきっかけに、学生の発音に気をつける様になりましてね。北九州方面の人は、一般に、名詞の発音を前の部分にアクセントを置く様だ、と言うことに気がつきましたね。テレビを見るときも、気を付けていますと、関西以西の方にこの傾向が、幾分強い様に感じられますね。詳しく、専門的に調べた訳では御座いませんが。

因みに、『NHK日本語アクセント辞典』では、「鎖(さ○)国(こく△)」の場合は、△にアクセントがある様に示されております。

蛇足ながら、かく言う小生は、道産子であります。北海道は、地域的にはかなり広いので、おしなべてどうのこうのと言うには相応しく御座いません。地方地方のいわゆる訛りがありますね。だから、道産子は皆んな同じ発音で話すかと言ったら、全然違いますね。

北海道の大手のテレビ局は、ほとんど札幌にありますので、テレビ放送は、いきおい札幌辺りの発音が多くなります。道産子からしますと、東京方面と大差ない様に聞こえますが、東京本場の方からすれば、違和感を持たれる場合も多いのでしょうね。小生は、札幌市から約40キロ程離れた農村に生まれ育ち、そこで日本語の基礎(?)を覚えて、高校を卒業し、東京の大学さ行っただよ。

大学には、いろんな地方から来ている人が集まっていましたが、東北や北海道の人は、やはり訛りを気にしていましたね。

全然気にしていないのは、大阪から来た人ですね。平気で、「なんでやねん」をやっていましたね。東京育ちの人もいましたね。北野武さんは、自分のことを「オイラ」と言いますが、小生の同じクラスにも「オイラ」がいましたよ。北海道の生まれ育ったところに「オイラ」はいませんでしたね。「オレ」ばっかりでしたよ。「オイラ」は、三橋美智也の「俺ら炭鉱夫」と言う歌の歌詞で、お目にかかった程度でしたね。(「おいらはナァ 生れながらの炭坑夫  身上はつるはし 一本さ でかいこの世の炭坑を 堀って堀って また堀って いつになったら幸せを エー 堀り当てるネ エンヤコラショ・・・)

小生の育った辺りでは、アクセント、インターネーション的には、東京方面のと比較すると、どちらかと言うと、抑揚が弱い、はっきりしない様に感じられますね。手取り早く特徴を言えば、平ったい棒読み的な感じがするのですよ。ですら、最近のアナリストの「家計」に出会ったり、九州方面の「鎖国」に出っくわした場合、違和感を強く感じのだ、と思われますね。まー、小生の独偏(独断と偏見の略語)でしょうが。

言葉は、その時々で色々変わりますが、ジジーはその変動に馴染むには、「時間がかかるなー!」と言うことになるのですよ。

これが、言葉だけでは御座いませんよ。社会の至るところで、この現象が発生していることは、指摘するまでも御座いません。

その度びに、ジジーは、アーアー「時間がかかるなー!」となるのですよ。小生だけかなー。

 

全然変化がないのは、「停念堂閑記」ですよ。進歩がないね。どーも。まー、凡人のやっていることですからねー。

しかし、これで、結構ヒマ潰しにはなっているのですよ。

相も変わらぬ行き当たりばったりのダラダラ書きで、恐縮で御座います。

お付き合い下さった方の貴重なヒマまで潰してしまい、申し訳御座いませんね。

またのお越しをお待ち申します。

お疲れ様で御座いました。

お後がよろしい様で。

《停念堂閑記》156

《停念堂閑記》156

 

「停念堂寄席」」93

  

 

生き甲斐」 

 

ようこそ、「停念堂閑記」へ。よくお越し下さいました。厚く御礼申し上げます。よほどヒマなのでしょうか。失敬、失敬。 

早速、恐縮で御座いますが、ここでの話は、相も変わらぬ、毎度毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリの、底、奥行きのめちゃんこ浅い、要するにマヌケな話で御座います。と言う事で、あまり期待はしないで下さいね。もとよりしていないですって。あのーですね、日本には、忖度(相手の立場をわきまえる)と言う文化があるのですよ。現在は、忖度すると言うのが、いけない事の意味合いで使われる場合が多い様に感じますなー。政治の場で、一般的に歓迎されない状況で使用されことが、多くあった所為ですかね。

しかし、マヌケな話とは申せ、多少の取柄もございますよ。それは、決して深刻にならないところです。夜、眠れなくなったりしませんからね。

すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

ただし、生真面目な(? )ところが、唯一つの取柄(?)です。

ホンマかいな。どこが、真面目なんや ?

たとえトンマなフザケタ話でも、真面目に取り組まなくてはいけませんよ。加トちゃんが申しておられましたが、彼の代表的なキャグ「ヒックション!」と言うのが御座いますが、これはタイミングがとても大事なのだそうです。真剣に、真面目にやらなくては、お客さんには全然伝わらない、と言っておられましたよ。

不真面目はいけません。

たとえ、ここでの話の真の目的が、単なるヒマ潰しでもね。 

なんちゅったって、真面目にヒマを潰さなくてはならないのですよ。決して、言うより易くは御座いません。これさえ、しっかりと認識しておけば、万事OKで御座いますよ。とにかく真面目にヒマ潰しに取り掛らなくてはね。

真面目を越すヒマ潰しは御座いませんよ。

あるお方が申しておられましたよ。

ヒマ潰しにやることは、須(すべか)らくアホくさいものだと。

これは真実ですよ。きっと。

毎度毎度の《停念堂閑記》がそれを証明しておりますからね。科学的な論拠です。 

さて、定年後の御同輩、きっと、持て余しているのでは。

毎日のヒマを。

お互いに、持て余しているヒマを、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ならないのですよ。これがリタイア後の最大の課題ですからね。

しかしですね。これは、これで、なかなか。ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

その通り。至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。 

と言うことで、本日も張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

どうです。この生真面目な姿勢。どこを切っても生真面目の金太郎飴。この真摯な生き方こそ、リタイア後のあるべき姿とはお思いになりませんか。

ぬ! 思わない! まー、堅いことは申しません。忖度は不要です。それはそれで良いのですよ。きっと。なんちゃってね。

それでは、参ります。

 

打倒! ヒマーッ!

A A O!  エイエイ オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声でんなー。

情けねー! トホホ。

 

さて、今回は、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う基本を踏まえて、「生き甲斐」と言う事をテーマとするマヌケな話をしようと思うのですよ。

どうです。今回のテーマは ?

文句無くありふれたアホ臭いテーマでしょう。

何を今更、ですよね。

しかし、これでも、今回は何で行こうかと、暫し悩むのですよ。

朝と言うより未だ夜中にですね。ションベンしたくて、叩き起こされるのですよ。兎に角、一回目が覚めると、もー寝付きが悪くなりますからね。それで、天井の闇を見つめて、今日は、何でいくか・・・、と言う事になるのですよ。こうなると、もー、とにかく何か結論に達しないと、朝、目覚めが ? (夜中に、とっくに、目覚めていますが)悪いのですよ。

知っている方は知っているでしょうが、知らない方は全然知らないことでしょうが、何をかくそう小生産まれながら、根が生真面目なんですよ。ネッ、知らなかったでしょう。兎に角、当人がそう言っているのだから、間違いございませんよ。

当人が言ってるからと言って、鵜呑みにする様なアホは、今時、一人もおりませんよってですか。自民党の議員さんを見ろと言うのですね。派閥、パーティー、裏金、彼らの言うこと、国民は99パーセント信じている方はいないでしょうね。

しかし、残りの1パーセントの存在が、ものを言っているのですよ。99パーセントのお方は、メディアのカメラ・マイクを向けられると、皆、決まって申し合わせた様に、納得いくものですか、信じられるものですか、とおっしゃいますがね。メディアは多くの場合、これを「政治不信」と表現している様に見受けられますが、この表現は、ちょっと頂けない気がしますね。どちらかと言いますと「政治不信」と言うよりは、「政治家不信」の方が当たっている様な気がするのですがね。独偏(独断と偏見の略語)ですが。

しかし、99%の方々のこの発言は、当然、カメラが捉えていますから、当人の言った事に間違いが御座いませんよ。

ところがですよ。この状態で、仮に、国会が解散となって、国政選挙が行われたと、思って見て下さいよ。

殆どの、今の現職議員さんが、当選、復活してくる事間違いがないのですよ。あの厳しい批判的な発言は、何処へ言っちゃっうのでしょうね。となることに、間違い御座いませんよ。きっと。

だから、当人がその様に言ったからと言って、それを鵜呑みにできるわけがないのですよ。

ただ、世の中に信じられる事があるとすれば、それは、言うまでも御座いません。小生の言っていることで御座いますよ。間違い御座いませんよ。当の本人が言っているのですから。真面目な話、この生真面目さで、私は、どれほど損をしたことか。

皮肉なものですよ。渡る世間は、とにかく真面目 ⇒ 損で出来てますからね。どうしてでしょうかね。

真面目 ⇒ 得と言う事態に、どうしてならないのでしょうね。

エート、エート・・・ それは、きっと面白さに欠けるところがあるからではないでしょうかね。間違い御座いません。当の本人が言っているのですからね。

ところで、人は誰でも面白い事が好きですからね。とにかく、誰しも、物事須らく、面白味がなくては、関心を持ちませんよ。但し、金儲けを除いてね。

なんかこれで今回のテーマの結論が出てしまった感じですよ。

きっとね。人はこの「面白さ」と言う点を、「生き甲斐」として日々の生活を営んでいるように見えますからね。なんちゃってね。

更に、もう一つプラスするとすれば、それは「好き」と言うことでしょうかね。人は、好き嫌いには、どえらくコダワリますからね。日常生活で、何かにつけて判断しなくてはならない事に直面しますよね。大きなことから、些細な事まで、いちいち判断しなくてはならない事の連続ですよね。これが生きていくと言う事なのでしょうかねー。

この日常生活における判断の元になっているのは、断然、「好き」か「嫌い」かと言う点ですよ。嫌いな事は、誰しもしたくは御座いませんよ。誰だって、好きな事をしたがりますよ。

と言う事で、「好き」な事をすると言うのが、「生き甲斐」に直結しているように思われるのですよ。

即ち、人は、誰でも「好きな面白い事」に、最大の関心があると言って良いように思われますね。但し、金儲けを除きますよ。なんちゃってね。

要するに、多くの人々の「生き甲斐」は、「好きな面白い事」をする、と言う点にあると言って良いようですね。

「好きな面白い事」は、もちろん各個人によって、色々様々ですね。

例えば、何かを収集する事に、凝りに凝っている方をよくお見かけ致しますなー。

知人に、神社様のお守り集めに、ノメリ込んでおられる方が御座いましてね。とにかく、神社様を見かければ、まず飛び込んでお守りを買って来る。これが溜まるに溜まって、部屋の壁がお守りで満杯。画鋲で一つづつ留めて有るのですが、もう空き地が無くなってましたよ。それが何らかの基準を設定して、ちゃんと整理分類されているのかと言うと、もー、そんな事は一切御構い無し。只々、数が多けりゃ良し、としたもので、同じのが幾つダブっていようが、大して気にしている様子は御座いませんね。旅に出ようものなら、まず第一に神社様探しですからね。

神社に関しては、御朱印マニアも多いようですが、御朱印の方は、同じのが重なると具合が良くないのでしょうが、お守りの方は、下手な鉄砲で、兎に角、数を打てば、ほぼ満足なのですから、ここの神社のは既に持ってたかなー、なんて悩む必要はさらさら無いのですよ。ダブっていたら、堪ったもんじゃ無いなんて事は一切無いのですよ。ひたすら溜まったもん勝ちなのですから。これがこよなく好きなのですよ。要するに、「生き甲斐」なのですからね。お亡くなりになられたら、ぜーんぶお棺に納めるのでしょうかね。どでかいお棺でなくちゃー間に合いませんよ。これで、葬儀が仏式でやろうものなら、どうなるのでしょうね。神社の神様、どうなさいます ?  一緒に火葬されてしまったら、お守り様は仏様になっちゃうのでしょうかね。どうしたものでしょう。ややっこしい問題ですなー。まー、好きにすれば、良いのでしょうが。

神社のお守りだけではなく、骨董品、絵画、ブランド品、切手、野球カード等々、拘り品のコレクターがおりますなー。

かく言う小生も、恥ずかしながら、かつて1円硬貨を集めた事がございますよ。とにかく、1円玉が手元に来ると、梅酒の瓶に入れると言う事になるのですよ。丁度、消費税が導入されて、スーパーなどでは、お釣りの1円玉がなくて、大弱りのご時世に、こっちとらーセッセと溜め込んだのですよ。結局、しばらくかかりましたが、梅酒瓶満杯になりました。

さすがに、いかほどかなー、なんて1個ずつ正確に数える勇気は御座いませんでしたよ。たしか10枚重ねて積みあげたものを1個作って、その高さに合わせて10個作りましてね、これで100円か、と言う事で、その嵩で目算して、もはや記憶がはっきりしませんが、2000円くらいでしたかねー。正確を欠きますが、ガッカリした様な記憶がございますね。

結局、某テレビ局の24時間なんちゃらの番組で、寄付を呼びかけていましたので、子供に持って行かせましたよ。受け取った側も、きっと内心迷惑だったろうね。

これがですね、懲りないのですよ。その後、5円玉に切り替えましてね。それが目下、梅酒の瓶2本分持ってるんですよ。これは、1円玉と違いましてね。重量が半端ないのですよ。迂闊にヒョイとやろうものなら、いきなりギックリ腰ですわ。

これが、処理に難儀な状況になってしまった様ですよ。金融機関では、所定の枚数(50枚かな?)までは普通に受け取ってくれる様ですが、これを超えると手数料が掛かって来るのですよ。51枚だったら、オーバーした1円の為に、手数料が発生するのですよ。ケッタイな話ですよね。預金しようとするお金の金額により、手数料を課す、と言うのですからね。預金者側だって、渡される時には、1枚だってオーバーしていたら手数料を頂きますからね。

この4月からは、ゆうちょ銀行の場合は、硬貨100枚までは、無料で扱ってくれる様になるとか。5円ですからね。100枚で500円。毎日、500円分の預金にゆうちょ銀行に出かけますかね。ひょとして、ヒマ潰しには良いかも知れませんなー。散歩がてらにね。しかし、5円玉だからね。10回通って、ようやく5000円ですからね。

ATM利用可とのことの様ですが、100枚づつだと何回やっても、手数料は課されないのでしょうな。やっぱり1日1回しかダメと言う制約付きなのでしょうかね。しかし、窓口で、係りの人と対応するより、ATMすなわち機械と対応する方が、幾分気楽ですなー。きっと。

私が知っている限りでは、昭和天皇在位60年を記念して、たしか10万円金貨が作られましたね。こちらだと良いですね。100枚✖️100000円 =10000000万円となりますからね。大丈夫か ???私ゃー、0が5個以上付くと、もう計算が怪しくなりますからね。10万円金貨なんて、殆ど、対面する機会、使うチャンスなど御座いませんよ。10万円金貨を100枚溜め込むのは、普通の日常生活では絶対無理でっせー。ほんまやでー、と言うことですよ。

だいたい10万円金貨では、自動販売機でジュース1本だって、駅で隣駅までの切符1枚だって、買えませんよ。猫に見せても、ソッポ向かれてしまいますよ。きっと。

かつて友人が、スーパーカー蕎麦屋さんに乗りつけて、ザル蕎麦一枚を食べて、支払いに10万円金貨を出したいものだ、と言っていた事が御座いましたが、きっと蕎麦屋さん商売柄とはいえ、メンくらうでしょうね。いきなり10万円金貨出されて、はいはいザル一枚ですね。お釣り99400円です。となると思いますか。10万円金貨なんて、そうそうお目にかかれるものでは御座いませんよ。貴方だって、一目で本物の10万円金貨であると、見極められますか。普通なら、お客さん、御冗談をなさらないで下さいよ。おもちゃでしょ。となると思いますね。

となると、10万円金貨では、現実には、ザル蕎麦一枚すら食べられないのですよ。信用ありませんなー。

しかし、持っていなくて、良かった。とはなりませんけどねー。できれば、持っていたいものですなー。欲しいね。本音はね。

時に、高額な貨幣は、使い方に難があり、価値が著しく低くなってしまう場合がある様ですよ。極めて、特殊な場合ですがね。

昔の話です。江戸時代の。古いね。全く。

江戸幕府の貨幣は、基本的には、金・銀・銭の三本立てでしたな。

金貨は、大判、小判、一分(ぶ)金、二分金、一朱金、二朱金で、これらは判金(ばんきん)と言われ、1個幾らと言う価値が付けられた貨幣です。

その単位は、両、分(ぶ)、朱で、大判1枚 = 小判7両2分、小判1両 = 金4分、金1分 = 金4朱とされていました。ややっこしいことに、4進法なのですよね。電卓で、計算ができないよー。

銀貨は、丁銀と豆板銀で、1個幾らと言うのではなく、秤で重さを測って使用する秤量貨幣でした。

単位は、貫、匁(もんめ。ただし、10、20、30~の様に一の位が0の場合は、「目(め)」の字を当てる慣習がありました。)、分(ふん。金貨と区別して、「ぶ」と言わない慣習がありました。)厘、毛・・・、金貨が4進法なのに対して、銀貨は10進法です。銀は柔らかい金属なので、使う時には、小刀で削って、秤にかけて使っていたのですね。金貨と違って、かなり小さな単位まで測る事が出来たので、計算・使用上便利だった訳です。削って使われるので、段々と細かくクズ゛状なってしまい、それはまた銀座に集められて、丁銀に再生されて流通させていたのですね。

そして、少額貨幣としては、銭が作られていましたね。銭形平次が賊に投げ付ける寛永通宝と言うやつですな。これが、小判を投げつける設定だと、金形平次と言われたのでしょうかね。

金貨が金座、銀貨が銀座で作られたと言うと、銭は銅座で作られたか、と言うとそうは参りませんよ。銭を作っていたのは、銭座ですよ。お間違い無く。

銭、寛永通宝は、一枚1文(もん)です。ケチする時に、一文もやらねー、と言う時の一文ですね。1000文を1貫文と言います。

金貨、銀貨、銭の幕府公定の交換レートは、小判1両 = 銀60目 =銭4貫文とされていました。

江戸時代の人は、大変だったろうね。この3種の貨幣を取っ替え引っ替えしながら使っていたのですからね。

すなわち、その用途に応じて、両替屋へ行って、この3種を交換しながら、使っていたのですよ。金貨は、高額ですから、半端な少額がくっついている場合は、金貨・銀貨・銭を組み合わせて、使っていたのですね。金3両2分(ぶ)銀32匁5(ふん)と銭12文なんてね。

面倒だったでしょうね。カードで全部OKにすれば良かったのにね。さすがの家康様も、そこまでは頭が回らなかった様ですなー。

ところで、小判1両が現在の貨幣で如何程になるか、銭形平次の投げ付けた寛永通宝1文は、如何程になるのか。なんて言う事が気にかかる方が多のではないでしょうか。

しかし、この換算は頗る厄介です。すなわち、幕府公定レートは決められていましたが、実際の金銭の受け渡しの現場は、その時々の市場レートがあったのですよ。

ここは大雑把の大雑把で計算してみますと、時ソバと言う落語がありますね。江戸時代後期の話だと思いますが、そばを食べて銭で支払う時に、一文ずつ渡して行くのですが、途中八枚のところで、何刻(なんどき)だ、なんて蕎麦屋に、時刻を尋ね、「九つだよ」と言う時刻を告げると、それに続けて十、十一・・・十六まで数えて支払い、そんじゃーと帰っていく。要するに九つのところで、1文誤魔化す話で、これを見た、おっちょこちょいさんが真似をして、ソバを食べて、感情する際、八枚のところで、蕎麦屋に何時だと尋ねて、蕎麦屋が「四つ刻」で、と告げると、続けて五つ、六つ・・・十六と支払い、逆に4文損しちゃうと言うマヌケの話ですが、この話ではソバが1杯で銭16文となってますよ。

仮に、これを基準にしてみますと、分かり易い様に、今の値段をソバ1杯を640円とします。とすると、銭1文、寛永通宝1枚は40円と言う勘定になります。そうしますと、銭4貫目(寛永通宝4000枚)は、およそ16万円程になります。すなわち、小判1両は、現在の16万円相当になるのですよ。高額貨幣ですね。

ところがですね。田舎で、5名の者が小判1両で仕事を請負いましてね。その賃金の支払いの時に、小判1両を受け取るのですが、これを5名で分けなければならないので、小銭に崩さなくてはならない事情となったのですよ。これがね。小判にはミシン目・切目がつけられてませからね。各人均等分配でも無かったので、要するに、銭にしなくては具合が悪かったのですよ。

ところが、ちょうど両替屋に銭が不足していて、1両は本来銭4000文ですが、現実には1900文程しかストックがなくて、困った事態になってしまったのですよ。弱りましたな。結局、小判1両を銭1900文程で取り替えるより仕方ない状況で、このレートで取り替える事態になった、と言う事があったりしたのですよ。

金・銀・銭の交換レートは、幕府が決めたものがありましたが、実際の市場では、その時々の状況により、謂わば市場レートで受け払いがなされていたのが実状だったのですね。

それから、落語「時そば」の一杯16文ではでは無くして、米の価格に基づき、貨幣価値の換算をする例をよく見ます。要するに、例えば江戸時代の米1石と、現在の米1石の価格を元に、換算したら良いのではないか、と言う事なのですが、これも中々問題があるのですよ。

要するに、米価ですが、これがどんな価格かと言うと、これは米の品質の違い、時々の米価変動、流通上どの様な価格か(生産者価格か、仲買価格か、卸売り価格か、小売価格か)、何処〈江戸か、大坂か、博多か等々〉の何と言う商店の価格か、激安売りのスーパーの価格か等々、一口に米価と言っても色々なのですよ。

ですから、江戸時代の貨幣の価値を現在の貨幣の価値に、正確に直すのは、頗る困難なのですよ。

要するに、小判1両は、現在の価値にして、何円になるのだ、と問われても、そー簡単には、換算できない事情が横たわっているのですよ。物価の問題は、すこぶる厄介なのですだよ。

 

余談はこれくらいにして、本題に戻ります。

さて、「生き甲斐」について、私ゃー長生きが、唯一の「生き甲斐」なんだよー、とおっしゃられるお年寄りがいらっしゃいますよ。ご尤もな「生き甲斐」と言う他ありませんなー。

しかし、実際は、只々生きていれば満足と言う事では無いのでしようね。きっと、何かしら自分の「楽しい好きな事」があるから、と言う前提があるのでは無いのでしょうかね。

再三指摘している様に、一般に、人は「楽しい好きな事」を「生き甲斐」にしたがる様に思われますなー。

「楽しい好きな事」は、言うまでもなく、各人それぞれで個体差が御座います。皆が同じである必要は、全く御座いませんな。だから世の中面白いのですよね。皆が同じだったら、全員、右向け右では、たまったものでは御座いませんよね。最も大事な面白味がないでしょ。皆んなが同じ事やっていたら、それはそれはつまんないですよねー。右向け右、背いたヤツは投獄だ、と言う物騒な国も御座いますけどね。私ゃー、それより、それぞれが、勝手なことをしている方が、面白く楽しいと思うのですが。どうでしょうかー。

さて、一般的に、人は「楽しい好きな事」を「生き甲斐」としたがると思われますが、もー少し具体的側面を見てみますと、一つは、極めて個人的な嗜好で、「楽しい好きな事」を「生き甲斐と」して過ごしておられる方がいらっしゃいますよ。

例えば、昭和の中頃は、成人男性は、1日の会社勤めを終えて帰宅し、一風呂浴びて汗を流し、テレビでプロ野球中継を観ながら、冷えたビールを一杯、と言うのが、最も喜びを感じ、「生き甲斐」となっていたと言うお方が多かった様ですね。庶民の細やかな「生き甲斐」と言えるのかも知れませんね。

また、勝負事のお好きな方は、パチンコに競馬、競輪、競艇オートレース、これらが好きで堪らない。これをやっている時が、とにかく一番楽しい。実に、きつい仕事を毎日毎日朝から晩までやっているのは、この楽しみのためなんだよ。と言うお方も、大勢いらっしゃったと思われますね。もちろん今現在だってね。変わり御座いませんよね。

かつて昭和の若者は、とにかく、車よ ! ってんで、稼ぎを全部車に注ぎ込んでいる方が、沢山おられましたね。

できる事なら、真っ赤なポルシェで、湘南を走り回り、あわよくば可愛い子をナンパして、隣に乗っけて江の島辺りを走り回る、と言うのが最高の夢だったのでしょうね。

しかし、ポルシェやフェラーリ、ラナボルギーニなどは、普通はとても手の届く代物ではございませんからね。だいたいは、儚い夢だったのでしょうがね。

しかし、男の子の車に対する情熱は、すごいものでしたね。現在あの頃の車に代わるものはありますかね。

現在の若者を虜にしているのは、もっぱらスマホですよね。しかし、ダイヤでも装飾すれば話は別ですが、以前のスーパーカーに匹敵する様なスマホは、心当たりが御座いませんな。

いくら電車内でスマホのゲームをしているのを見ても、カッコいーとはなりませんよね。内容に入って、「イイね」500万に達した、となるとカッコいーと言う事になるのですかねー。私らの様な古い人間は、やっぱり真っ赤なフェラーリに可愛い子を乗っけて、湘南を、あれが烏帽子岩さ、なんちゅって、走っている方が断然カッコよく見えるのですがね。

あのですね。ここでは車の趣味をどうのこうのと言うことを問題にしたいわけでは御座いませんよ。核心は、「カッコいー」と言う事なのですよ。

すなわち、前に言った「楽しい好きな事」に必ず一緒についてくるのが、この「カッコイー」と言う事だ、と言いたいのですよ。

申すまでも無く、大抵の人は、生きていく中で、必ずこの「カッコイー」と言う事に、物凄く拘(こだわ)っている様に思えるのですよ。

子供が興味をそそらない嫌がることの中には、多くの場合、「カッコ悪い」と言う要素が含まれていますね。何かつまらないことを頼んだりすると、そんなカッコの悪いことは嫌だ、と即座に断られてしましますよね。断る理由が「カッコウ」なのですよ。子供に限った事では無く、大人だって、気に入らない、乗り気でない場合には「そんなカッコ悪いこと嫌だよ」となるでしょ。日常、衣食住など基本的な事に関わり、要するに、格好をつける事に拘りがあるのですね。

この傾向は、大抵の人に、強く伺われますね。

すなわち、「楽しい好きな事」の真ん中に、「カッコイー」と言う要素が、デンと構えておいでになるのですよ。

「楽しい好きな事」= 「カッコイー」と言う公式が、「生き甲斐」を決定している、と言っても良いくらいですね。

なお又、「生き甲斐」の中には、個人的な嗜好とは別に、社会的な評価を問題とする場合が多い様です。自分の「生き甲斐」としている事が、周囲から好評を得られる、と言う事です。これが、とてつもなく「カッコイー」のですよ。

ただ単に自己の嗜好を満足させる事が「生き甲斐」に通じると言う事とは別に、周囲から高い評価を受ける事に、「生き甲斐」を求める方が、断然多いと思われますね。

早い話が、他人(ひと)の為になること、社会の役に立つことを「生き甲斐」として指向する方は、凄く多い様に感じられますね。立派なことですよ。

要するに、自分が楽しくやれる好きなこと、それがとても格好がいー、他人(ひと)の為、社会の為にもなるとなれば、さらに格好良さが一段と加わるのですよ。

つまるところ、こう言うことが「生き甲斐」として、最も相応しいと言えそうですね。なんちゃって。

ところが、これがスンナリ行くかと言いますと、これがねー。これが世の中、なかなかでしてね。

例えば、他人(ひと)の為、社会の為になると判断してやった事が、別の立場の人から見れば、よくもあんな余計なことを、とんでも無いことをしてくれたものだ、と酷評されることは、いたって普通に御座いますからね。

要するに、世間には、色々異なった価値観をお持ちの方がいらっしゃいますから、誰しも皆んなから好評を受ける、と言う事はなかなか難しいところが御座いますなー。

 

さて、何時ものことながせら、ダラダラと長くなってしまいましたが、皆様の「生き甲斐」は、どの様ですか。

ナニッ! ダラダラと詰まらないことを書かない、と言うのがあなたの「生き甲斐」だってですか。あーそうですか。そうですか。結構な「生き甲斐」で御座いますなー。肖(あやか)りたいものですなー。

しかし、このダラダラ書きは、そう簡単に止めることはできませんよ。小生の「生き甲斐」ですからね。と言うことは全く御座いませんが、ヒマ潰しにはもってこいなのですよ。

因みに、強いて申させて頂けますなら、私は、特に「生き甲斐」と言えるものは持ち合わせませんな。何と無くのその日暮らしで、現在に至っていると言うところですな。

特に、これと言った「生き甲斐」を意識なされない方も、多くいらっしゃられるのではないでしょうか。十人十色で、良いのではないでしょうか。

強いて言えば、特に「生き甲斐」を持たない、と言うのが「生き甲斐」なのさ。なんちゃってね。

ハー、? ? ?  ですか 。

今回は、特に、落ちもなく、終わりに致します。

時節柄、入学試験の最中ですから、オチが無い方が良いでょ。

 

どうもお付き合い下され、有難う御座いました。お疲れ様で御座いました。

またのお越しをお待ち申し上げます。

お後がよろしい様で。