《停念堂閑記》161

《停念堂閑記》161

 

「停念堂寄席」98

   

「無鉄砲」

  

ようこそ、「停念堂閑記」へ。

よくお越し下さいました。厚く御礼申し上げます。

よほどおヒマなのでしょうか。他に行く所が無いのですか ? 

失敬、失敬。とんでも御座いません。ご多忙の中「停念堂閑記」をお開き頂きまして、誠に有難う御座います。どうぞ、ごゆるりと、ヒマ潰しをなさって下さいませ。 

早速、恐縮で御座いますが、ここでの話は、相も変わらぬ、毎度毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う、略して「アバク」の三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリの、底、奥行きのメッチャ浅い、要するにヌケ ? な話です。 すみません、マが抜けてしまいました。まさに、マヌケな話で御座います。

と言う事でして、あまり期待をなさらないで下さいね。

そんな事、元よりしていないってですか。

アノー、ですね、日本には、忖度(相手の気持ちを考慮すること)と言う文化があるのですよ。なんと麗しい(?)文化では御座いませんか。

ところが、現在は、忖度すると言うのが、いけない事の意味合いに感ずる方(かた)が多い様に見受けられますなー。おそらく、政治の場において、権力者に対する忖度が際立ち、弱者側に目を向けない場合が多く見られた所為(せい)ですかね。それで、一般的に忖度すること自体、歓迎されないことが、多くなった、と感ずるのは、小生の独偏(独断と偏見の略語)でしょうか。

特に、今時の若者は、忖度が嫌いなように見受けられますが、そのくせ “場の空気を読めよ” なんて事を言っているのをよく耳にしますなー。マー、その時々の感情優先と言うことなのでしょうかねー。

しかし、日比憐休のマヌケな話とは申せ、多少の取柄もございますよ。それは、決して深刻にならないところです。夜、眠れなくなったりしませんからね。

かつて、春日三球・照代さんと漫才師がおられまして、地下鉄の列車がどのようにして地下の線路に入れられたのかを考えると、夜も眠れなくなる、と言うネタで、結構受けていた事があったのですよ。蛇足ながら、若者諸氏へ。

ここでの「アバク」な話は、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

ただし、生真面目な(?)ところが、唯一、トビッキリの取柄(?)なんですよ。

ホンマかいな。どこが、真面目なんや ? ってですか。

たとえトンマなフザケタ話でも、真面目に取り組まなくてはいけませんよ。とにかく人間不真面目はいけません。

たとえ、ここでの話の真の目的が、単なるヒマ潰しでもね。 

なんちゅったって、真面目にヒマを潰さなくてはならないのですよ。ふざけていてはいけませんよ。ふざけるのは、話だけにして下さいよ。とにかく何をおいても真面目に、真摯にヒマ潰しに取り組まなくてはね。人の道に悖(もと)りますよ。

真面目を越すヒマ潰しは御座いませんよ。

あるお方が申しておられました。

ヒマ潰しにやることは、須(すべか)らくアホくさいものだと。

これは真実ですよ。キット。

毎度毎度の《停念堂閑記》がそれを如実に証明しておりますからね。科学的な論拠です。《停念堂閑記》が科学の範疇か ???  

さて、定年後の御同輩、きっと、持て余しているのでは。

毎日のヒマを。

お互いに、持て余しているヒマを、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ならないのですよ。これがリタイア後の最大の課題ですからね。当然、真面目にですよ。

しかしですね。これは、これで、なかなか、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙掛らなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

そうです。その通り。至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。 

と言うことで、本日も張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

どうです。この生真面目な姿勢。どこを切っても生真面目の金太郎飴。この真摯な生き方こそ、リタイア後のヒマ潰しのあるべき理想の姿とはお思いになりませんか。

ヌッ! 思わない! 

それはそれで、結構で御座いますよ。忖度は不要です。まー、好みは、人それぞれですからね。それで良いのですよ。キット。ぜったいに、負け惜しみでは御座いませんよ。なんちゃってね。

尚、はじめに、謝っておきます。一所懸命お働きの皆様、ふざけた話で、申し訳御座いません。どうぞ、ご勘弁の程を、お願い申し上げます。

それでは、参ります。

 

打倒! ヒマーッ!

エイエイ オー! A A O!  

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声でんなー。

情けねー! トホホ・・・・・

 

今回は、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う「アバク3原則」を踏まえて、なんと途轍もない有意義 (?) な話をしようと思うのですよ。思うのは自由ですからね。自由はいいね。あれこれ制約されたら、たまりませんね。生活し難いですからね。

前以てお断りしておきますが、有意義(?) な話は、往々にして、全然面白味が御座いませんよ。決して、ウソは申しません。この点は、トクトご記憶下さいませ。サー、面白くない話で、思いっきり凹み(へこみ)下(さ)がり(「盛り上がり」の反対のつもりです。)ましょう。

 

さて、ここでの話は、今言ったばかりですが、、有意義(?) な話で御座いますが、これがどっこいそうは参りませんよ。本当は、無駄話なのですよ。そうです。有意義な無駄話なのですよ。単なる毎度毎度のヒマ潰し!

ところが、無駄話とは申せ、とにかく話を作らなくてはならないのですよ。これが行き当たりバッタリと来てますから、なかなか難儀なのですよ。何か、魂胆があって、予め筋書きを用意してあるわけでは無いのですよ。尻滅裂、オット、変換したら、何やら怪しげな文字が出てしまいましたよ。本当は、支離滅裂を期待していたのですが、尻が出て来てしまいましたな。こう来るとは、シリませんでしたよ。いきなり、クレヨンしんちゃんの登場ですわ。予期せぬ事態であります。

やっぱり、用意なく、話を作ろうなんて、所詮、無鉄砲と言うのでしょうかね。

ハッ! 閃きましたよ。閃きましたよ。下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、と言うものですな。

今回のテーマは、「無鉄砲」と言うことにしますわ。

 

今、何気無く「無鉄砲」と言う語が浮かんだのですが、ふと、「無鉄砲」とはどう言う意味なのだ、語源は ? と言う事が、半ボケの脳裏を掠めたのですよ。今まで、「無鉄砲」とは、どんな意味だ ?  と言う疑問を持って、わざわざ調べた事がなかったのですよ。字面からすれば、鉄砲を持たずに、戦場に出かけると言った意味で、転じて、状況を弁えず、闇雲に何かをしようとする事、と言った意味合ぐらいに思ってましたね。まさに、「停念堂閑記」の「アバク」な話そのものですよ。

 

今は、便利になりましたね。以前は、分かり難い言葉に出っくわすと、国語辞典とか漢和辞典に当たるべき所を、チャチャっと、ネットで検索すれば、ハイ事済みとなりますからね。

ただし、ネット情報は、迂闊に飛びつくと、とんだスカをつかまさせられる事が御座いますから、注意が必要ですね。

 

そこで、早速、「無鉄砲」の意味・語源を検索してみましたところ、沢山ヒットしましたね。いきなり、満塁状態ですわ。

小生の関心事について、要点をみますと、

意味は、事情をよく考えずに行動してしまう事、向こう見ず、無謀、命知らずなどなど、色々出てきますなー。通常、一般的に、このような意味合いで使われていますね。

因みに、『広辞苑』では、むてっぽう 無手っ法 無点法の転。

  理非や前後を顧みず、むやみに事をすること。むこうみず、あ   

  とさきみず、無鉄砲。

と記されています。

 

「無鉄砲」は、字面(じづら)からすれば、鉄砲が無い状態のことですね。これから派生して、準備なくやろうとする事は軽はずみだ、と言うような意味で、通常使われているのではと思われますね。準備不十分のまま事に臨むと言う意味ですね。まさに、「停念堂閑記」の話にぴったりですな。

 

ところが、語源からすると、「鉄砲」は当て字で、本来は、「鉄砲」とは関わりがないと言われているようですよ。

諸説があるようです。

その一説に、鉄砲を持たずに、戦いに挑むと言うことではない。「無点法」或いは「無手法」と言う語に、「無鉄砲」の字を当てた語と言われているようです。

 

「無点」とは、ドラえもんの相棒、野比のび太君がよくとるテストの0点の事ではないようですよ。

少々お堅い話になりますが、漢文に訓点(日本語読みにする時につける句読点や返り点など)がつけられていないことを「無点」と言うのだ、と言う事です。  

この無点の漢文は、読み難くて、意味が分かりづらいのです。それで、意味がはっきりしない事を「無点法」と言うようになったそうです。そして、これに発音が幾分似ている「無鉄砲」の字が当てられたと言うことだそうです。

ネット情報では、このように、解説したものが多く見られます。従来、このように考えられて来た、と言う事なのでしょうね。

ところで、「無点」の意味はわかりますが、ここからが、言わずもがなの屁理屈です。

すなわち、「無点」に「法」の字が付くと、どうなるのでしょう。

「法」は、一般に、憲法とか法律とか、決め事の意味に使いますね。または、やり方 ー方法ー を表す文字として使いますね。

そうしますと、「無点法」は、「漢文に訓点を施さない決め事、漢文に訓点を施さないやり方」と言うような意味となるのではないでしょうか。どうでしょう。この屁理屈。屁理屈は、何処にでも、すぐくっ付きますよ。

としますと、例えば、「漢文に訓点を施さない決め事・その方法」となると、それは、一体どんな決め事、方法でしょうな、と言う屁理屈がついて来る事になっちゃうのですよ。

訓点を施さない漢文は、白文と言われますが、中国で書かれた漢文は、当然、白文で訓点など施されてはおりませんね。必要が御座いませんからね。

すなわち、中国で、漢文が書かれる時には、そもそも「漢文に訓点を施さない決め事、あるいはその方法」なんと言うことは、全く配慮されることではないでしょうね。

 

中国で漢文で書かれた書物が、日本に持ち込まれて、さてどのように読むのかが問題となったでしょうね。そこで、日本語に直す場合に、元の漢文に、訓点を施すと具合が良い、と言う事が考え出されたものと、思われますね。

誰が、訓点を施す方法を思いついたのか、小生は知る由も御座いません。日本では、昔、誰かが、漢文で書かれた本を読みましたよ、と言う場合は、その人の判断で訓点を施した、と言う事だ、と言うことを聞いた覚えが御座います。要するに、どのように訓点を施してかが、漢文を読む、と言うことなのです。他の人が読んだ場合、訓点の施し方が異なるかも知れない訳です。それは、読んだ人が、どのように訓点を施して読んだのか、と言う事になるのですね。

 

と言うことで、「無点法」は、「漢文に訓点を施さない決め事・その方法」とした場合、そんなこと言われても、はて、なのことか、とピント来づらいのですよ。

一方「漢文に訓点を施す場合の決め事」と言えば、これは分かりますよね。

例えば、禅寺の入り口には、

  不許葷酒入山門

と刻した石柱が建てられていましたね。

これに訓点を施せば、

  不葷酒入山門

となるのが、一般的だと思われます。

  記号は、この下方の文字を先に読むこと、一 二 三 は、 一 二 三 の順に読むことと言う記号です。これに従って日本語読みにすると、 

  葷酒山門に入るを許さず

と読ませるのが、一般的ですよね。

葷は、葫(にんにく)とか韮(にら)などの匂いのきつい物、酒はお酒です。すなわち、葷酒を、寺の境内に持ち込むことを許さ無い、と言う寺側の戒めです。

ところが、

  不葷、酒入山門

訓点を施せば、

  葷許さず、酒山門に入る

となり、葷は許さ無いが、酒は山門に入って良い、と言うような意味合いとなります。

また、

  不葷酒、入山門

訓点を施せば、

  葷酒を許さず、山門に入る

となり、些か苦しいけれど、葷酒は許さないが、寺の境内に入るとなってしまいます。

さらに、

  不許葷酒、入山門

訓点を施せば、

  許さざる葷酒、山門に入る

となり、許していない葷酒が、山門に入るとなります。もとよりこのような読み方は無理なのですが、ここは、お笑いを優先して、葷酒は許していないが、寺の境内に入ってしまう、苦しいながらも、呑んべいさんにとっては、都合の良い読み方となります。

この例は、よくお笑いのネタとして使われてますね。

 

このように、訓点を施すには、ある程度の決まり事に従う、と言うのが一般的で、訓点の施しようによっては、漢文本来の意味が異なってしまう場合もなくは無いのです。本来の文章の意味合いを崩さないように読む事が肝心なのは、申すまでも御座いません。

 

と言うことで、「無点法」は、漢文に「訓点を施さない決め事・方法」と言われても、何のことか、ピンと来づらいですね。

ところがです。漢文に「訓点を施す方法」と言うのがある、と言う事になりますと、「訓点を施さない方法」もあるのでは、と言う理屈が存在する事になったりしますね。図らずしも、「無点法」が存在する事になってしまうのですよ。

そして、「無点法」に、「無鉄砲」の語が当たられることになった、と言うのですよ。まーいくぶん発音が、似通っていますが、どうでしょうね。このような事がないとは言えず、あってもおかしくはないのでしょうね。

しかし、「無点法」が、仮に「漢文に訓点を施さない決め事・方法」と言う意味合いだとすると、現在使われている「事情をよく考えずに行動してしまう事」と言う「無鉄砲」との意味合いが、どうもしっくり来ない感じがしますね。

これには、これなりの理由があるようです。

すなわち、無点の漢文は、読み難く、意味も分かりづらいのだ。それから派生して、事情が分からことを「無点法」と言うようになり、これに「無鉄砲」の文字が当てられることになったのである、と言うような説明がなされているようです。

類似点をこじつけるにしても、「無点法」が、いきなり難解で意味が良く分からないまま、何かを行うやり方、と言うような意味合いになるのでしょうかね。

すなわち、「無点法」は、漢文に訓点をつけないやり方だとすれば、これが「事情をよく考えずに行動してしまう事」の意味合いとなるには、かなりの飛躍があるように感じますなー。

小生には、幾分ピント来ない感じが致しますね。小生が、ピンとこないと言ったところで、それがどうした、ですからね。どうにかなると言うことでは、御座いません。蛇足ながら。

なお、『広辞苑』では、「むてっぽう」の項目で、「無鉄砲」の語を当てた項目は見られません。「無手っ法」の語を当てて、「無点法の転」と解説されています。そして、「理非や前後を顧みず、むやみに事をすること。むこうみず、あとさきみず、無鉄砲。」と書かれています。要するに、「無鉄砲」は、「むこうみず、あとさきみず」と同類である、とする記載とみなされます。

広辞苑』では、「無点法」が転じて、「無手っ法」となり、「無鉄砲」と同じ意味合いである、と解説されていると見て良いでしょう。「無鉄砲」自体の解説がないのが残念です。

 

言葉の発生、新語の発生について、何時、何処で、誰が、どのようにして、と言う観点から真相を突き止めよう、なんて言うことは、すこぶる難儀なことですよね。「無鉄砲」についても、「無鉄砲」がよく似合う長屋の八さん、熊さんが、テヤンデー、ベラボーメ とやる時に、いちいち「無鉄砲」は「無点法」から転じたのよ、なんてことは考えもしないでしょうな。長屋のおかみさん等の井戸端会議にだって、熊さんの奥さんが、うちの宿六はとにかく無鉄砲で、とぼやく時に、「無点法」が脳裏をかすめることは、まず、ないでしょうな。そもそも、「無点法」などと言うことは、広く庶民の知識となっていたのでしょうかね。寺子屋の先生が、子供を集めて、漢文に訓点を施さないことを「無点法」と言うのだよ、と教えていたのでしょうかね。

きっと、漢文に接する機会の多い人達の間では、「無点法」どうのこうのと言う事が、話題に上ったものと推測はされますね。そのような場から、読みづらく、意味もわからない漢文を「無点法」と言われ出したのでは、と思ったりはしますね。この事情を、何時、何処で、誰が、どのようにして、と問われても、何とも困ってしまいますねー。きっと。

 

次に、「無手法」について見ますと、「無手」は、手に何も持っていない事、或いは特に技術や芸等を身につけていない事、だと言われています。これに「法」の字が付けられると、その決め事や方法の意味となる訳でしょうね。特に道具や技術などを持たないでやる決め事、道具や技術などを持たないでやる方法と言うくらいの意味になりそうですね。と言うことで、「無手法」に、「無鉄砲」の字が当てられた、と言うことのようです。

「無手法」が「無手っ法」と読まれた。すなわち「むてっぽう」と言われるようになって、これに「無鉄砲」の字が当てられた、と言うことなのでしょうね。

「無点法〈むてんほう〉」に「無鉄砲」が当てられた、と言うよりは、「無手法〈むてほう〉(むてっぽう)」に「無鉄砲」が当てられた、と言う方が、無理がないようにも見られますが。実際が、どうであったかは、分からない事ですから、なんともねえ・・・ と言うほか御座いませんね。

 

蛇足ながら、太田為三郎編『日本随筆索引』によれば、江戸時代後期の戯作者柳亭種彦の『柳亭記』(上ノ四七)に「むてつぱう」の詞が見られると言うことです。漢字としてどのような文字が当てられたのかは、確認されておりません。

すでに、江戸時代後期には、「むてつぱう」と言う詞があったようですね。しかし、これが「無点法」の意味を引くものか、「無手法」の意味を引くものか、はたまた、全く別ものなのか、はっきり致しませんね。「無点法」や「無手法」とは全く何ら関係がなく、発生の最初から「無鉄砲」だったりしたとしても、それはそれかも知れませんね。無理やり、「無点法」や「無手法」に結び付けなくても、こじつけ無くても、最初から「無鉄砲」だったのさ、と言う方が、分かり良い気がしますねー。証拠は御座いませんが。

要するに、詞・言葉の発生には、本来、その理由・事情等があった事には、間違いないと思われますが、詞・言葉の発生の現場を突き止めることは、かなり難し事ですよね。ドラえもんに頼んでみたら、どうにかなりそうかも知れませんがね。しかし、ドラえもんだって、のび太くん相手に、「無点法」がどうのこうのやる訳ないですよね。

 

今は、例えば、お笑い芸人さんや漫画家さん、作家さんなどの誰かが、今まで使われていなかった詞・言葉を突然使って、図らずしもそれが大受けして、一気に広まってしまったと言う例は、結構あるのではないでしょうか。

例えば、志村けんさんの「アイーン」と言うぎゃく、赤塚不二夫氏作の出っ歯のイヤミさんが発する「シエー」や『ゴルゴ13』でお馴染みのさいとう・たかお氏が使い出した「劇画」などは、よく知られているところですね。この手の語源がはっきりしている詞・言葉は、現在では沢山あると思われますが、ずーっと昔となると、その証拠を文献資料に見つけ出すことはすこぶる大変、大難儀の事ですね。

詞・言葉は、計り知れない膨大な数にのぼりますが、その一語一語について、語源が明解になることはないと思われますし、明解にすることは、すなわち史料的に事実を証明することは。正に気の遠くなる作業に他なりません。

でも、この詞・言葉の語源はなにかなー、と思うことは、ままある事ですね。その時に、それなりの手間暇金をかけて調べたりする奇特な方がおられたりする訳ですね。まー、関係ありそうな資料にあたり、証拠を探し求めるのですが、中には、うまく求めているものに巡り合うこともありましょうが、これが、そうは行かない場合が多々ある訳ですね。その場合は、目下調査中であり、結論は未だ不明と言う事になるのでしょうね。

 

しかし、これではどうも治りが悪いと感じた時には、証拠探しとは別のやり方に走る場合がある訳ですね。

往々にしてとられる方法として、類似する詞・言葉を漁り、なんとかそれとの関係を考え出して、要領よく結び付けて、実は、こうだったのではないのか、と言う見解を作り出す事になったりする訳でしょうね。分かりよく言ってしまえば、例えば、ほとんど駄洒落の仕法で、何とか納得行かせてしまおう、なんて言う方向も出てくる事になりかねないのですよね。要するに、実証はされないが、なんとか理屈をつけて、納得されそうなことを、体裁よくまとめると言うことですかね。

 

いくらヒマ潰しとは申せ、ほとんど手掛かりもなく、「無鉄砲」とは ? なんと言うことに、手を出す事自体、正に「無鉄砲」と言うほか御座いません。

甚だ、安易なオチで面目次第も御座いません。

 

どうもお付き合い下さいまして、お疲れさんで御座いました。

懲りずに、またのお越しをお待ち申しあげます。

お後がよろしいようで。