《停念堂閑記》157

 

《停念堂閑記》157

 

「停念堂寄席」」94

  

 

「時間がかかるなー!」 

 

ようこそ、「停念堂閑記」へ。よくお越し下さいました。厚く御礼申し上げます。

よほどヒマなのでしょうか。失敬、失敬。ご多忙の中お運び、どうも有難う御座います。 

早速、恐縮で御座いますが、ここでの話は、相も変わらぬ、毎度毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリの、底、奥行きのめちゃんこ浅い、要するにマヌケな話で御座います。と言う事で、あまり期待はしないで下さいね。

もとよりしていないですって。

あのーですね、日本には、忖度(相手の立場をわきまえる)と言う文化があるのですよ。現在は、忖度すると言うのが、いけない事の意味合いで使われる場合が多い様に感じますなー。政治の場で、一般的に歓迎されない状況で使用されことが、多くあった所為(せい)ですかね。

しかし、マヌケな話とは申せ、多少の取柄もございますよ。それは、決して深刻にならないところです。夜、眠れなくなったりしませんからね。

すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

ただし、生真面目な(? )ところが、唯一トビッキリの取柄(?)なんですよ。

ホンマかいな。どこが、真面目なんや ?

たとえトンマなフザケタ話でも、真面目に取り組まなくてはいけませんよ。加トちゃんが申しておられましたが、彼の代表的なキャグ「ヒックション!」と言うのが御座いますが、これはタイミングがとても大事なのだそうです。真剣に、真面目にやらなくては、お客さんには全然伝わらない、と言っておられましたよ。

不真面目はいけません。

たとえ、ここでの話の真の目的が、単なるヒマ潰しでもね。 

なんちゅったって、真面目にヒマを潰さなくてはならないのですよ。決して、言うより易くは御座いません。これさえ、しっかりと認識しておかなくてはなりませんねー。とにかく何をおいても真面目にヒマ潰しに取り掛らなくてはね。

真面目を越すヒマ潰しは御座いませんよ。

あるお方が申しておられましたよ。

ヒマ潰しにやることは、須(すべか)らくアホくさいものだと。

これは真実ですよ。きっと。

毎度毎度の《停念堂閑記》がそれを証明しておりますからね。科学的な論拠です。 

さて、定年後の御同輩、きっと、持て余しているのでは。

毎日のヒマを。

お互いに、持て余しているヒマを、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ならないのですよ。これがリタイア後の最大の課題ですからね。当然、真面目にですよ。

しかしですね。これは、これで、なかなか。ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

その通り。至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。 

と言うことで、本日も張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

どうです。この生真面目な姿勢。どこを切っても生真面目の金太郎飴。この真摯な生き方こそ、リタイア後のあるべき理想の姿とはお思いになりませんか。

ぬ! 思わない! 

それはそれで、結構で御座いますよ。忖度は不要です。それで良いのですよ。きっと。なんちゃってね。

それでは、参ります。

 

打倒! ヒマーッ!

A A O!  エイエイ オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声でんなー。

情けねー! トホホ。

 

さて、今回は、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う基本を踏まえて、「時間がかかるなー!」と言う事を落とし所とする退屈な話をしようと思うのですよ。

さて、世の中の現状は、周辺を見渡しますと、どこもかしこもシャッキリしない事だらけで、小言ありありだったりしてしまうのですよ。自然と、小言抗米まっしぐらですなー。

実に、ジジーの得意分野であります。当然のこととして、ジジーの特技、かなりの時代遅れは免れませんがねー。

まー、結論は分かっているつもりですよ。

要するに、社会の動き・変化が速すぎて、最早ジジーは、付いて行くのがアップアップだー。時代の変化に馴染むのに、「時間がかかるなー!」と言うことに尽きるのですわ。

 

この頃やけに目につくのは、例えばですね。会社で忙しく仕事をしている時に、もう12時なので、同僚が「昼飯食いに行こう」と声をかけると、かけられた方が、なんと「大丈夫」と返答するのですよ。最近のドラマによく見られる場面です。

要は、昼飯には、参りませんと言う意思表示の時に、「大丈夫」が使われいているのですよ。

ジーとしては、この流れで、「大丈夫」と言われると、なんやそれ、と感ずるのですよ。ジジーのこれまででは、この流れで、「大丈夫」と言う言葉は、通常使われないのですよ。

 

因みに、「大丈夫」と言う意味は、『広辞苑』では、「しっかりしている様。ごく堅固なさま。危なげのないさま。」とあります。インターネットで比較的利用者の多い『goo辞書』でも、「1 あぶなげがなく安心できるさま。強くてしっかりしているさま。 まちがいがなくて確かなさま。」と出ています。

だから、昼飯に誘われた時に、そもそも、その返答に「大丈夫」と言うのは、会話になっていないのですよ。

通常は、「苦しそうだなー。ちょっと休むか。」などと言う場面で、「大丈夫、続けましょう。」などと言うのが、普通ですよね。

例えば、この会社で忙しく仕事をしている場面で、12時なので、同僚から「昼飯食いに行こう」と声をかけられた場合、忙しいけれども「大丈夫」と応対して、よし昼飯行こうの意味で、「」大丈夫」が使われたのならば、違和感を感じませんがね。誘いをお断りする意味には取りにくいですよね。大丈夫とは、支障がないと言うことですからね。

ところが、最近のドラマなどでは、この様な場面では「行きません」の断りの意味で「大丈夫」が使われているのですな。時事に敏感な作家か脚本家の方が、この様な表現をいち早くとる様になったのかは、存じませんが、テレビの若いタレント・芸人さん達の会話では、かなり頻繁に、お断りする場面で、この「大丈夫」が使われておりますなー。

自民党の派閥政治資金問題に関わる政治倫理審査会における怪しげな議員さんの答弁では御座いませんが、作家・脚本家の方が先に使い出したのか、タレント・芸人さんが先に使い出したのか、はたまたどこかで学生さんが、ヒョイと使ったのがきっかけとなったのかは、小生には、その真相は記憶に御座いませんよ。

多分、タレント・芸人さんのどなたかがあやふやな使い方をしたのがきっかけで、他の方が真似しだした。そして、流行に敏感な作家や脚本家の方が、早速使用し出したのではなかろうかと、思われますがねー。

とにかく、最近は、この様な同意できない、お断りすると言う場面で、「大丈夫」が多用される傾向にあるのですよ。まー、すでに、これが一般的になってしまったのでしょうかねー。

なお、世間には、若者の文化、時の流れに乗り遅れては一大事と思っている中年、老年者は常に少なからず、存在してますから、それが適切か否かは大して気にせず、若者に迎合するのが一般的となっているのでしょうね。特に、テレビのアナウンサーや司会者にも、この傾向が強い様ですからね。おそらく、若い人を集めた番組では、言語の不適切使用をいちいち糾していては、盛り上がらない、番組が成立しない、視聴率が下がってしまう等々が心配されるのでしょうね。半ば、率先しているアナウンサーや司会者も見かけますがねー。この様な彼、彼女達は、きっと若者文化の最先端を走っているのでしょうねー。

とにかく、これが、すでに、一般的になってしまったのでしょーか。

まー、言葉は生き物ですから、その意味合いも、時とともに変化するのは、やむを得ませんがねー。

そこで、ジジーとしては、この事態に馴染むには、かなりの「時間がかかるなー!」と言う事態に陥ることと相成るので御座いますよ。そして、ようやく馴染んだ頃には、現実の事態は、既にとんでもない方向を呈しているのですよ。キット。情けねー。

 

話変わってですね。もー、馴染んできてますが、以前に「方(ほう)」をやたらとあちこちにくっつけるのが流行りましたなー。今でも使う方(かた)がいらっしゃいますが。

例えば、ラーメン屋さんで食事をして、代金950円を1000札で支払らおうとしたら、「お釣りの方(ほう)は、50円です。」なんてやられてしまうのですよ。なんじゃ。この「方(ほう)」と言うのは ?となるのですよ。「お釣りは50円です。」で十分通じてますよね。

若者の間では、この「方(ほう)」がくっつくと、丁寧な言い回しになるのだとか。

「お釣りは50円です。」で、「方(ほう)」なんぞつけられなくても、ジジーは何も失礼だなー、なんて感じませんよ。

「方(ほう)」は、通常は方向・方角などを示す時に使いますよね。いくつかの選択肢があって、その一つを選択する場合など、指定する時に使いますよね。

だから「お釣りの方 (ほう)」とやられると、別途、お釣りでない「方(ほう)」が、何かあるのかなー、なんて気を回すことになっちゃったりするのですよ。

「方 (ほう)」なんぞつけられたからといって、特別、丁重に扱われたなー、なんて全然感動しませんからねー。なんやー、変なのがくっついてるなーとは思いますがね。

しかし、この「方(ほう)」も、今となっては、既に、定着しているのでしょうな。時々遭遇いたしますよ。

また、料理の先生がよくお使いになられる「あげる」と言う言い回しが、気に掛かりますなー。

小生の独偏(独断と偏見の略語)では、「あげる」と言う用語は、例外はあるでしょうが、多くは人格を有するものに対する丁寧な表現として、もっぱら用いるものと心得ていたのですよ。

具体的に申しますと、例えば、小さな子供が何か重い物を持ち上げようと難儀している場面で、居合わせた大人が「重いでしょ。持ってやるよ。」とするところを「重いでしょう。持ってあげる。」と言うと幾分丁寧な表現となるのですよ。こんなこと誰でも知ってますよね。失礼致しました。

ところが、テレビにお出になる料理の先生の中には、例えば、大根の皮をむく時に、普通に言えば、「桂剥きにします」と言うところを「桂剥きにしてあげます」なんておっしゃられるので御座いますよ。海老の天麩羅を作る場面では、「海老に衣をつけて、油温度170度で揚げてあげます。」なんてね。「・・・170度で揚げます。」で十分なのにね。アゲの場合などは、「アゲを揚げてあげます。」てなことになってしまうと、なんやそれ、になってしまうのですよ。

また、「人参はまな板の上で乱切りにします。」で良いと思われるところが、「人参はまな板の上で乱切りにしてあげます。」てなことになるのですよ。丁寧な表現と思っておられるのですかね。人参には、人格が御座いませんから、丁寧に言われても、当の人参は何も感ずるところはないでしょうね。

ナヌ! 人参(にん参)には人(にん)の字が入っているから、人格が備わっている、ですって。それはちょっとにん識違い、と言うものでは御座いませんか。

それからやたらと「お」の字をつけますね。お大根、お人参、おネギなんてね。やっぱり野菜の方は、いくらゴマを擦って「お」の字をつけられても、何にも感じないでしょうな。

ナヌ!おゴマは、擦って使うから、良いのだってですか。ハハー、参りました。

ところで、食材の場合、お野菜は結構「お」の字をつける場合が多い様に見受けられますが、オクラに「お」の字はあまり付けない様ですね。「おオクラ」では、響きが良くないのでしょうかね。チンゲン菜も「おチンゲン菜」はあまり聞きませんね。ゴロが良くないのでしょうかね。「おとろろ芋」・「お小松菜」・「おアスパラガス」・「おカリフラワー」・「おゴーヤ」・「おズッキーニ」・「お高菜」・「おパセリ」・「おモロヘイヤ」等々は、まだちょと馴染みが薄い様な気がしますねー。

お魚の「お」の字は、聞き慣れていますが、お鯛、お平目、おイカ、おブリ等々はあまり馴染みが深くありませんな。竜宮城の場合だって、鯛や平目の舞い踊りを丁寧に、お鯛やお平目の舞い踊りとは、あまり聞きませんよね。

「鯵(あじ)」は、結構使えますねー。「お鯵のお味はいかがですかー。」なんちゃってね。

また、日本の食材には、「お」の字を平気で付けますが、外来品には、おキャビアとかおフオグラとかおトリュフなど言う丁寧な表現は、あまり聞いたこと御座いませんな。舶来品は、すごく珍重がられるのにね。どうしたことでしょう。語呂が悪いのかなー。

てなことでして、お料理用語には、時にシャキとしない場合が見受けられますが、頻繁に使えば、その内、馴染むのでしょうね。

しかし、かなり「時間がかかるなー!」と思われますね。

 

ついでに、言葉の発音に、かなりアレェーと感じられることがありませんか。

この頃気に掛かるのは、主に名詞の発音の場合、「○△」と言う言葉の時に、○の部分にアクセントを置いて発音する傾向になって来た様に感ずるのですよ。言葉によって、以前から○の部分にアクセントを置く慣例があるものもありましたよね。

例えば、橋と箸の様に、言い違えると意味が違ってしまうことになる場合がありますよね。

橋(は○し△)の場合は、「し△」の部分にアクセントを置いて、やや強めに発音しますね。

箸(は○し△)の場合は、「は○」の部分にアクセントを置いて、やや強めに発音しますね。

日本語の難しい点の一つですね。

ところが、最近、「家計」の発音が、ちょっと気にかかっているのですよ。

今までは、私の独偏(独断と偏見の略語)では、「家(か○)計(けい△)」は、△の部分にアクセントを置いて、やや上げ気味に発音するのが、一般的の様に思っていたのですが、最近は「か○」の部分にアクセントが置かれ、やや強く、「計(けい)△」の部分を低めに発音する様になって来ているのですよ。

因みに、『NHK日本語アクセント辞典』では、△にアクセントがある様に示されております。こちらは、従来、聞き慣れているので、違和感を感じなくて済むのですが、この頃は、○にアクセントを置く人がかなり多く見受けられて、違和感を感じるのですよ。特に、テレビで見られる料理の先生では御座いませんで、市況についてのアナリストと呼ばれているお方々は、決まった様に○にアクセントを置いて、話されるのですよ。なんか、違和感を感ずるのですよね。特に、某番組では、大学教員や研究所研究員、銀行や証券会社等から、市況についての専門家を招いて、色々とご意見を述べてもらうのですが、この方々は、決まった様に、「家(か○)計(けい△)」の「家(か○)」の部分にアクセントを置いて話されるのですよ。

ところが、番組を担当している司会者は、当該テレビ局のアナウンサーの方の様にお見受け致しますが、お招きした方々に対する忖度なのか、司会者の方も「家(か○)計(けい△)」の「家(か○)」の部分にアクセントを置いて話されるのですよ。伝染性が強いのでしょうかね。何ぞ、原因があるのでしょうか。

 

以前に、学生が授業が終わってから、質問があるんですけど、とやって来ましてね。「鎖国(さこく)」がどうのこうのと言う質問でした。この時に、「鎖(さ○)国(こく△)」を○にアクセントを置いて話すのですよ。小生は、△にアクセントを置く発音を長らくしてたものですから、かなり違和感がございましてね。生まれ育ちはどこかを尋ねたところ、九州福岡ですと言ってました。

これをきっかけに、学生の発音に気をつける様になりましてね。北九州方面の人は、一般に、名詞の発音を前の部分にアクセントを置く様だ、と言うことに気がつきましたね。テレビを見るときも、気を付けていますと、関西以西の方にこの傾向が、幾分強い様に感じられますね。詳しく、専門的に調べた訳では御座いませんが。

因みに、『NHK日本語アクセント辞典』では、「鎖(さ○)国(こく△)」の場合は、△にアクセントがある様に示されております。

蛇足ながら、かく言う小生は、道産子であります。北海道は、地域的にはかなり広いので、おしなべてどうのこうのと言うには相応しく御座いません。地方地方のいわゆる訛りがありますね。だから、道産子は皆んな同じ発音で話すかと言ったら、全然違いますね。

北海道の大手のテレビ局は、ほとんど札幌にありますので、テレビ放送は、いきおい札幌辺りの発音が多くなります。道産子からしますと、東京方面と大差ない様に聞こえますが、東京本場の方からすれば、違和感を持たれる場合も多いのでしょうね。小生は、札幌市から約40キロ程離れた農村に生まれ育ち、そこで日本語の基礎(?)を覚えて、高校を卒業し、東京の大学さ行っただよ。

大学には、いろんな地方から来ている人が集まっていましたが、東北や北海道の人は、やはり訛りを気にしていましたね。

全然気にしていないのは、大阪から来た人ですね。平気で、「なんでやねん」をやっていましたね。東京育ちの人もいましたね。北野武さんは、自分のことを「オイラ」と言いますが、小生の同じクラスにも「オイラ」がいましたよ。北海道の生まれ育ったところに「オイラ」はいませんでしたね。「オレ」ばっかりでしたよ。「オイラ」は、三橋美智也の「俺ら炭鉱夫」と言う歌の歌詞で、お目にかかった程度でしたね。(「おいらはナァ 生れながらの炭坑夫  身上はつるはし 一本さ でかいこの世の炭坑を 堀って堀って また堀って いつになったら幸せを エー 堀り当てるネ エンヤコラショ・・・)

小生の育った辺りでは、アクセント、インターネーション的には、東京方面のと比較すると、どちらかと言うと、抑揚が弱い、はっきりしない様に感じられますね。手取り早く特徴を言えば、平ったい棒読み的な感じがするのですよ。ですら、最近のアナリストの「家計」に出会ったり、九州方面の「鎖国」に出っくわした場合、違和感を強く感じのだ、と思われますね。まー、小生の独偏(独断と偏見の略語)でしょうが。

言葉は、その時々で色々変わりますが、ジジーはその変動に馴染むには、「時間がかかるなー!」と言うことになるのですよ。

これが、言葉だけでは御座いませんよ。社会の至るところで、この現象が発生していることは、指摘するまでも御座いません。

その度びに、ジジーは、アーアー「時間がかかるなー!」となるのですよ。小生だけかなー。

 

全然変化がないのは、「停念堂閑記」ですよ。進歩がないね。どーも。まー、凡人のやっていることですからねー。

しかし、これで、結構ヒマ潰しにはなっているのですよ。

相も変わらぬ行き当たりばったりのダラダラ書きで、恐縮で御座います。

お付き合い下さった方の貴重なヒマまで潰してしまい、申し訳御座いませんね。

またのお越しをお待ち申します。

お疲れ様で御座いました。

お後がよろしい様で。