《停念堂閑記》156

《停念堂閑記》156

 

「停念堂寄席」」93

  

 

生き甲斐」 

 

ようこそ、「停念堂閑記」へ。よくお越し下さいました。厚く御礼申し上げます。よほどヒマなのでしょうか。失敬、失敬。 

早速、恐縮で御座いますが、ここでの話は、相も変わらぬ、毎度毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリの、底、奥行きのめちゃんこ浅い、要するにマヌケな話で御座います。と言う事で、あまり期待はしないで下さいね。もとよりしていないですって。あのーですね、日本には、忖度(相手の立場をわきまえる)と言う文化があるのですよ。現在は、忖度すると言うのが、いけない事の意味合いで使われる場合が多い様に感じますなー。政治の場で、一般的に歓迎されない状況で使用されことが、多くあった所為ですかね。

しかし、マヌケな話とは申せ、多少の取柄もございますよ。それは、決して深刻にならないところです。夜、眠れなくなったりしませんからね。

すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

ただし、生真面目な(? )ところが、唯一つの取柄(?)です。

ホンマかいな。どこが、真面目なんや ?

たとえトンマなフザケタ話でも、真面目に取り組まなくてはいけませんよ。加トちゃんが申しておられましたが、彼の代表的なキャグ「ヒックション!」と言うのが御座いますが、これはタイミングがとても大事なのだそうです。真剣に、真面目にやらなくては、お客さんには全然伝わらない、と言っておられましたよ。

不真面目はいけません。

たとえ、ここでの話の真の目的が、単なるヒマ潰しでもね。 

なんちゅったって、真面目にヒマを潰さなくてはならないのですよ。決して、言うより易くは御座いません。これさえ、しっかりと認識しておけば、万事OKで御座いますよ。とにかく真面目にヒマ潰しに取り掛らなくてはね。

真面目を越すヒマ潰しは御座いませんよ。

あるお方が申しておられましたよ。

ヒマ潰しにやることは、須(すべか)らくアホくさいものだと。

これは真実ですよ。きっと。

毎度毎度の《停念堂閑記》がそれを証明しておりますからね。科学的な論拠です。 

さて、定年後の御同輩、きっと、持て余しているのでは。

毎日のヒマを。

お互いに、持て余しているヒマを、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ならないのですよ。これがリタイア後の最大の課題ですからね。

しかしですね。これは、これで、なかなか。ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

その通り。至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。 

と言うことで、本日も張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

どうです。この生真面目な姿勢。どこを切っても生真面目の金太郎飴。この真摯な生き方こそ、リタイア後のあるべき姿とはお思いになりませんか。

ぬ! 思わない! まー、堅いことは申しません。忖度は不要です。それはそれで良いのですよ。きっと。なんちゃってね。

それでは、参ります。

 

打倒! ヒマーッ!

A A O!  エイエイ オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声でんなー。

情けねー! トホホ。

 

さて、今回は、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う基本を踏まえて、「生き甲斐」と言う事をテーマとするマヌケな話をしようと思うのですよ。

どうです。今回のテーマは ?

文句無くありふれたアホ臭いテーマでしょう。

何を今更、ですよね。

しかし、これでも、今回は何で行こうかと、暫し悩むのですよ。

朝と言うより未だ夜中にですね。ションベンしたくて、叩き起こされるのですよ。兎に角、一回目が覚めると、もー寝付きが悪くなりますからね。それで、天井の闇を見つめて、今日は、何でいくか・・・、と言う事になるのですよ。こうなると、もー、とにかく何か結論に達しないと、朝、目覚めが ? (夜中に、とっくに、目覚めていますが)悪いのですよ。

知っている方は知っているでしょうが、知らない方は全然知らないことでしょうが、何をかくそう小生産まれながら、根が生真面目なんですよ。ネッ、知らなかったでしょう。兎に角、当人がそう言っているのだから、間違いございませんよ。

当人が言ってるからと言って、鵜呑みにする様なアホは、今時、一人もおりませんよってですか。自民党の議員さんを見ろと言うのですね。派閥、パーティー、裏金、彼らの言うこと、国民は99パーセント信じている方はいないでしょうね。

しかし、残りの1パーセントの存在が、ものを言っているのですよ。99パーセントのお方は、メディアのカメラ・マイクを向けられると、皆、決まって申し合わせた様に、納得いくものですか、信じられるものですか、とおっしゃいますがね。メディアは多くの場合、これを「政治不信」と表現している様に見受けられますが、この表現は、ちょっと頂けない気がしますね。どちらかと言いますと「政治不信」と言うよりは、「政治家不信」の方が当たっている様な気がするのですがね。独偏(独断と偏見の略語)ですが。

しかし、99%の方々のこの発言は、当然、カメラが捉えていますから、当人の言った事に間違いが御座いませんよ。

ところがですよ。この状態で、仮に、国会が解散となって、国政選挙が行われたと、思って見て下さいよ。

殆どの、今の現職議員さんが、当選、復活してくる事間違いがないのですよ。あの厳しい批判的な発言は、何処へ言っちゃっうのでしょうね。となることに、間違い御座いませんよ。きっと。

だから、当人がその様に言ったからと言って、それを鵜呑みにできるわけがないのですよ。

ただ、世の中に信じられる事があるとすれば、それは、言うまでも御座いません。小生の言っていることで御座いますよ。間違い御座いませんよ。当の本人が言っているのですから。真面目な話、この生真面目さで、私は、どれほど損をしたことか。

皮肉なものですよ。渡る世間は、とにかく真面目 ⇒ 損で出来てますからね。どうしてでしょうかね。

真面目 ⇒ 得と言う事態に、どうしてならないのでしょうね。

エート、エート・・・ それは、きっと面白さに欠けるところがあるからではないでしょうかね。間違い御座いません。当の本人が言っているのですからね。

ところで、人は誰でも面白い事が好きですからね。とにかく、誰しも、物事須らく、面白味がなくては、関心を持ちませんよ。但し、金儲けを除いてね。

なんかこれで今回のテーマの結論が出てしまった感じですよ。

きっとね。人はこの「面白さ」と言う点を、「生き甲斐」として日々の生活を営んでいるように見えますからね。なんちゃってね。

更に、もう一つプラスするとすれば、それは「好き」と言うことでしょうかね。人は、好き嫌いには、どえらくコダワリますからね。日常生活で、何かにつけて判断しなくてはならない事に直面しますよね。大きなことから、些細な事まで、いちいち判断しなくてはならない事の連続ですよね。これが生きていくと言う事なのでしょうかねー。

この日常生活における判断の元になっているのは、断然、「好き」か「嫌い」かと言う点ですよ。嫌いな事は、誰しもしたくは御座いませんよ。誰だって、好きな事をしたがりますよ。

と言う事で、「好き」な事をすると言うのが、「生き甲斐」に直結しているように思われるのですよ。

即ち、人は、誰でも「好きな面白い事」に、最大の関心があると言って良いように思われますね。但し、金儲けを除きますよ。なんちゃってね。

要するに、多くの人々の「生き甲斐」は、「好きな面白い事」をする、と言う点にあると言って良いようですね。

「好きな面白い事」は、もちろん各個人によって、色々様々ですね。

例えば、何かを収集する事に、凝りに凝っている方をよくお見かけ致しますなー。

知人に、神社様のお守り集めに、ノメリ込んでおられる方が御座いましてね。とにかく、神社様を見かければ、まず飛び込んでお守りを買って来る。これが溜まるに溜まって、部屋の壁がお守りで満杯。画鋲で一つづつ留めて有るのですが、もう空き地が無くなってましたよ。それが何らかの基準を設定して、ちゃんと整理分類されているのかと言うと、もー、そんな事は一切御構い無し。只々、数が多けりゃ良し、としたもので、同じのが幾つダブっていようが、大して気にしている様子は御座いませんね。旅に出ようものなら、まず第一に神社様探しですからね。

神社に関しては、御朱印マニアも多いようですが、御朱印の方は、同じのが重なると具合が良くないのでしょうが、お守りの方は、下手な鉄砲で、兎に角、数を打てば、ほぼ満足なのですから、ここの神社のは既に持ってたかなー、なんて悩む必要はさらさら無いのですよ。ダブっていたら、堪ったもんじゃ無いなんて事は一切無いのですよ。ひたすら溜まったもん勝ちなのですから。これがこよなく好きなのですよ。要するに、「生き甲斐」なのですからね。お亡くなりになられたら、ぜーんぶお棺に納めるのでしょうかね。どでかいお棺でなくちゃー間に合いませんよ。これで、葬儀が仏式でやろうものなら、どうなるのでしょうね。神社の神様、どうなさいます ?  一緒に火葬されてしまったら、お守り様は仏様になっちゃうのでしょうかね。どうしたものでしょう。ややっこしい問題ですなー。まー、好きにすれば、良いのでしょうが。

神社のお守りだけではなく、骨董品、絵画、ブランド品、切手、野球カード等々、拘り品のコレクターがおりますなー。

かく言う小生も、恥ずかしながら、かつて1円硬貨を集めた事がございますよ。とにかく、1円玉が手元に来ると、梅酒の瓶に入れると言う事になるのですよ。丁度、消費税が導入されて、スーパーなどでは、お釣りの1円玉がなくて、大弱りのご時世に、こっちとらーセッセと溜め込んだのですよ。結局、しばらくかかりましたが、梅酒瓶満杯になりました。

さすがに、いかほどかなー、なんて1個ずつ正確に数える勇気は御座いませんでしたよ。たしか10枚重ねて積みあげたものを1個作って、その高さに合わせて10個作りましてね、これで100円か、と言う事で、その嵩で目算して、もはや記憶がはっきりしませんが、2000円くらいでしたかねー。正確を欠きますが、ガッカリした様な記憶がございますね。

結局、某テレビ局の24時間なんちゃらの番組で、寄付を呼びかけていましたので、子供に持って行かせましたよ。受け取った側も、きっと内心迷惑だったろうね。

これがですね、懲りないのですよ。その後、5円玉に切り替えましてね。それが目下、梅酒の瓶2本分持ってるんですよ。これは、1円玉と違いましてね。重量が半端ないのですよ。迂闊にヒョイとやろうものなら、いきなりギックリ腰ですわ。

これが、処理に難儀な状況になってしまった様ですよ。金融機関では、所定の枚数(50枚かな?)までは普通に受け取ってくれる様ですが、これを超えると手数料が掛かって来るのですよ。51枚だったら、オーバーした1円の為に、手数料が発生するのですよ。ケッタイな話ですよね。預金しようとするお金の金額により、手数料を課す、と言うのですからね。預金者側だって、渡される時には、1枚だってオーバーしていたら手数料を頂きますからね。

この4月からは、ゆうちょ銀行の場合は、硬貨100枚までは、無料で扱ってくれる様になるとか。5円ですからね。100枚で500円。毎日、500円分の預金にゆうちょ銀行に出かけますかね。ひょとして、ヒマ潰しには良いかも知れませんなー。散歩がてらにね。しかし、5円玉だからね。10回通って、ようやく5000円ですからね。

ATM利用可とのことの様ですが、100枚づつだと何回やっても、手数料は課されないのでしょうな。やっぱり1日1回しかダメと言う制約付きなのでしょうかね。しかし、窓口で、係りの人と対応するより、ATMすなわち機械と対応する方が、幾分気楽ですなー。きっと。

私が知っている限りでは、昭和天皇在位60年を記念して、たしか10万円金貨が作られましたね。こちらだと良いですね。100枚✖️100000円 =10000000万円となりますからね。大丈夫か ???私ゃー、0が5個以上付くと、もう計算が怪しくなりますからね。10万円金貨なんて、殆ど、対面する機会、使うチャンスなど御座いませんよ。10万円金貨を100枚溜め込むのは、普通の日常生活では絶対無理でっせー。ほんまやでー、と言うことですよ。

だいたい10万円金貨では、自動販売機でジュース1本だって、駅で隣駅までの切符1枚だって、買えませんよ。猫に見せても、ソッポ向かれてしまいますよ。きっと。

かつて友人が、スーパーカー蕎麦屋さんに乗りつけて、ザル蕎麦一枚を食べて、支払いに10万円金貨を出したいものだ、と言っていた事が御座いましたが、きっと蕎麦屋さん商売柄とはいえ、メンくらうでしょうね。いきなり10万円金貨出されて、はいはいザル一枚ですね。お釣り99400円です。となると思いますか。10万円金貨なんて、そうそうお目にかかれるものでは御座いませんよ。貴方だって、一目で本物の10万円金貨であると、見極められますか。普通なら、お客さん、御冗談をなさらないで下さいよ。おもちゃでしょ。となると思いますね。

となると、10万円金貨では、現実には、ザル蕎麦一枚すら食べられないのですよ。信用ありませんなー。

しかし、持っていなくて、良かった。とはなりませんけどねー。できれば、持っていたいものですなー。欲しいね。本音はね。

時に、高額な貨幣は、使い方に難があり、価値が著しく低くなってしまう場合がある様ですよ。極めて、特殊な場合ですがね。

昔の話です。江戸時代の。古いね。全く。

江戸幕府の貨幣は、基本的には、金・銀・銭の三本立てでしたな。

金貨は、大判、小判、一分(ぶ)金、二分金、一朱金、二朱金で、これらは判金(ばんきん)と言われ、1個幾らと言う価値が付けられた貨幣です。

その単位は、両、分(ぶ)、朱で、大判1枚 = 小判7両2分、小判1両 = 金4分、金1分 = 金4朱とされていました。ややっこしいことに、4進法なのですよね。電卓で、計算ができないよー。

銀貨は、丁銀と豆板銀で、1個幾らと言うのではなく、秤で重さを測って使用する秤量貨幣でした。

単位は、貫、匁(もんめ。ただし、10、20、30~の様に一の位が0の場合は、「目(め)」の字を当てる慣習がありました。)、分(ふん。金貨と区別して、「ぶ」と言わない慣習がありました。)厘、毛・・・、金貨が4進法なのに対して、銀貨は10進法です。銀は柔らかい金属なので、使う時には、小刀で削って、秤にかけて使っていたのですね。金貨と違って、かなり小さな単位まで測る事が出来たので、計算・使用上便利だった訳です。削って使われるので、段々と細かくクズ゛状なってしまい、それはまた銀座に集められて、丁銀に再生されて流通させていたのですね。

そして、少額貨幣としては、銭が作られていましたね。銭形平次が賊に投げ付ける寛永通宝と言うやつですな。これが、小判を投げつける設定だと、金形平次と言われたのでしょうかね。

金貨が金座、銀貨が銀座で作られたと言うと、銭は銅座で作られたか、と言うとそうは参りませんよ。銭を作っていたのは、銭座ですよ。お間違い無く。

銭、寛永通宝は、一枚1文(もん)です。ケチする時に、一文もやらねー、と言う時の一文ですね。1000文を1貫文と言います。

金貨、銀貨、銭の幕府公定の交換レートは、小判1両 = 銀60目 =銭4貫文とされていました。

江戸時代の人は、大変だったろうね。この3種の貨幣を取っ替え引っ替えしながら使っていたのですからね。

すなわち、その用途に応じて、両替屋へ行って、この3種を交換しながら、使っていたのですよ。金貨は、高額ですから、半端な少額がくっついている場合は、金貨・銀貨・銭を組み合わせて、使っていたのですね。金3両2分(ぶ)銀32匁5(ふん)と銭12文なんてね。

面倒だったでしょうね。カードで全部OKにすれば良かったのにね。さすがの家康様も、そこまでは頭が回らなかった様ですなー。

ところで、小判1両が現在の貨幣で如何程になるか、銭形平次の投げ付けた寛永通宝1文は、如何程になるのか。なんて言う事が気にかかる方が多のではないでしょうか。

しかし、この換算は頗る厄介です。すなわち、幕府公定レートは決められていましたが、実際の金銭の受け渡しの現場は、その時々の市場レートがあったのですよ。

ここは大雑把の大雑把で計算してみますと、時ソバと言う落語がありますね。江戸時代後期の話だと思いますが、そばを食べて銭で支払う時に、一文ずつ渡して行くのですが、途中八枚のところで、何刻(なんどき)だ、なんて蕎麦屋に、時刻を尋ね、「九つだよ」と言う時刻を告げると、それに続けて十、十一・・・十六まで数えて支払い、そんじゃーと帰っていく。要するに九つのところで、1文誤魔化す話で、これを見た、おっちょこちょいさんが真似をして、ソバを食べて、感情する際、八枚のところで、蕎麦屋に何時だと尋ねて、蕎麦屋が「四つ刻」で、と告げると、続けて五つ、六つ・・・十六と支払い、逆に4文損しちゃうと言うマヌケの話ですが、この話ではソバが1杯で銭16文となってますよ。

仮に、これを基準にしてみますと、分かり易い様に、今の値段をソバ1杯を640円とします。とすると、銭1文、寛永通宝1枚は40円と言う勘定になります。そうしますと、銭4貫目(寛永通宝4000枚)は、およそ16万円程になります。すなわち、小判1両は、現在の16万円相当になるのですよ。高額貨幣ですね。

ところがですね。田舎で、5名の者が小判1両で仕事を請負いましてね。その賃金の支払いの時に、小判1両を受け取るのですが、これを5名で分けなければならないので、小銭に崩さなくてはならない事情となったのですよ。これがね。小判にはミシン目・切目がつけられてませからね。各人均等分配でも無かったので、要するに、銭にしなくては具合が悪かったのですよ。

ところが、ちょうど両替屋に銭が不足していて、1両は本来銭4000文ですが、現実には1900文程しかストックがなくて、困った事態になってしまったのですよ。弱りましたな。結局、小判1両を銭1900文程で取り替えるより仕方ない状況で、このレートで取り替える事態になった、と言う事があったりしたのですよ。

金・銀・銭の交換レートは、幕府が決めたものがありましたが、実際の市場では、その時々の状況により、謂わば市場レートで受け払いがなされていたのが実状だったのですね。

それから、落語「時そば」の一杯16文ではでは無くして、米の価格に基づき、貨幣価値の換算をする例をよく見ます。要するに、例えば江戸時代の米1石と、現在の米1石の価格を元に、換算したら良いのではないか、と言う事なのですが、これも中々問題があるのですよ。

要するに、米価ですが、これがどんな価格かと言うと、これは米の品質の違い、時々の米価変動、流通上どの様な価格か(生産者価格か、仲買価格か、卸売り価格か、小売価格か)、何処〈江戸か、大坂か、博多か等々〉の何と言う商店の価格か、激安売りのスーパーの価格か等々、一口に米価と言っても色々なのですよ。

ですから、江戸時代の貨幣の価値を現在の貨幣の価値に、正確に直すのは、頗る困難なのですよ。

要するに、小判1両は、現在の価値にして、何円になるのだ、と問われても、そー簡単には、換算できない事情が横たわっているのですよ。物価の問題は、すこぶる厄介なのですだよ。

 

余談はこれくらいにして、本題に戻ります。

さて、「生き甲斐」について、私ゃー長生きが、唯一の「生き甲斐」なんだよー、とおっしゃられるお年寄りがいらっしゃいますよ。ご尤もな「生き甲斐」と言う他ありませんなー。

しかし、実際は、只々生きていれば満足と言う事では無いのでしようね。きっと、何かしら自分の「楽しい好きな事」があるから、と言う前提があるのでは無いのでしょうかね。

再三指摘している様に、一般に、人は「楽しい好きな事」を「生き甲斐」にしたがる様に思われますなー。

「楽しい好きな事」は、言うまでもなく、各人それぞれで個体差が御座います。皆が同じである必要は、全く御座いませんな。だから世の中面白いのですよね。皆が同じだったら、全員、右向け右では、たまったものでは御座いませんよね。最も大事な面白味がないでしょ。皆んなが同じ事やっていたら、それはそれはつまんないですよねー。右向け右、背いたヤツは投獄だ、と言う物騒な国も御座いますけどね。私ゃー、それより、それぞれが、勝手なことをしている方が、面白く楽しいと思うのですが。どうでしょうかー。

さて、一般的に、人は「楽しい好きな事」を「生き甲斐」としたがると思われますが、もー少し具体的側面を見てみますと、一つは、極めて個人的な嗜好で、「楽しい好きな事」を「生き甲斐と」して過ごしておられる方がいらっしゃいますよ。

例えば、昭和の中頃は、成人男性は、1日の会社勤めを終えて帰宅し、一風呂浴びて汗を流し、テレビでプロ野球中継を観ながら、冷えたビールを一杯、と言うのが、最も喜びを感じ、「生き甲斐」となっていたと言うお方が多かった様ですね。庶民の細やかな「生き甲斐」と言えるのかも知れませんね。

また、勝負事のお好きな方は、パチンコに競馬、競輪、競艇オートレース、これらが好きで堪らない。これをやっている時が、とにかく一番楽しい。実に、きつい仕事を毎日毎日朝から晩までやっているのは、この楽しみのためなんだよ。と言うお方も、大勢いらっしゃったと思われますね。もちろん今現在だってね。変わり御座いませんよね。

かつて昭和の若者は、とにかく、車よ ! ってんで、稼ぎを全部車に注ぎ込んでいる方が、沢山おられましたね。

できる事なら、真っ赤なポルシェで、湘南を走り回り、あわよくば可愛い子をナンパして、隣に乗っけて江の島辺りを走り回る、と言うのが最高の夢だったのでしょうね。

しかし、ポルシェやフェラーリ、ラナボルギーニなどは、普通はとても手の届く代物ではございませんからね。だいたいは、儚い夢だったのでしょうがね。

しかし、男の子の車に対する情熱は、すごいものでしたね。現在あの頃の車に代わるものはありますかね。

現在の若者を虜にしているのは、もっぱらスマホですよね。しかし、ダイヤでも装飾すれば話は別ですが、以前のスーパーカーに匹敵する様なスマホは、心当たりが御座いませんな。

いくら電車内でスマホのゲームをしているのを見ても、カッコいーとはなりませんよね。内容に入って、「イイね」500万に達した、となるとカッコいーと言う事になるのですかねー。私らの様な古い人間は、やっぱり真っ赤なフェラーリに可愛い子を乗っけて、湘南を、あれが烏帽子岩さ、なんちゅって、走っている方が断然カッコよく見えるのですがね。

あのですね。ここでは車の趣味をどうのこうのと言うことを問題にしたいわけでは御座いませんよ。核心は、「カッコいー」と言う事なのですよ。

すなわち、前に言った「楽しい好きな事」に必ず一緒についてくるのが、この「カッコイー」と言う事だ、と言いたいのですよ。

申すまでも無く、大抵の人は、生きていく中で、必ずこの「カッコイー」と言う事に、物凄く拘(こだわ)っている様に思えるのですよ。

子供が興味をそそらない嫌がることの中には、多くの場合、「カッコ悪い」と言う要素が含まれていますね。何かつまらないことを頼んだりすると、そんなカッコの悪いことは嫌だ、と即座に断られてしましますよね。断る理由が「カッコウ」なのですよ。子供に限った事では無く、大人だって、気に入らない、乗り気でない場合には「そんなカッコ悪いこと嫌だよ」となるでしょ。日常、衣食住など基本的な事に関わり、要するに、格好をつける事に拘りがあるのですね。

この傾向は、大抵の人に、強く伺われますね。

すなわち、「楽しい好きな事」の真ん中に、「カッコイー」と言う要素が、デンと構えておいでになるのですよ。

「楽しい好きな事」= 「カッコイー」と言う公式が、「生き甲斐」を決定している、と言っても良いくらいですね。

なお又、「生き甲斐」の中には、個人的な嗜好とは別に、社会的な評価を問題とする場合が多い様です。自分の「生き甲斐」としている事が、周囲から好評を得られる、と言う事です。これが、とてつもなく「カッコイー」のですよ。

ただ単に自己の嗜好を満足させる事が「生き甲斐」に通じると言う事とは別に、周囲から高い評価を受ける事に、「生き甲斐」を求める方が、断然多いと思われますね。

早い話が、他人(ひと)の為になること、社会の役に立つことを「生き甲斐」として指向する方は、凄く多い様に感じられますね。立派なことですよ。

要するに、自分が楽しくやれる好きなこと、それがとても格好がいー、他人(ひと)の為、社会の為にもなるとなれば、さらに格好良さが一段と加わるのですよ。

つまるところ、こう言うことが「生き甲斐」として、最も相応しいと言えそうですね。なんちゃって。

ところが、これがスンナリ行くかと言いますと、これがねー。これが世の中、なかなかでしてね。

例えば、他人(ひと)の為、社会の為になると判断してやった事が、別の立場の人から見れば、よくもあんな余計なことを、とんでも無いことをしてくれたものだ、と酷評されることは、いたって普通に御座いますからね。

要するに、世間には、色々異なった価値観をお持ちの方がいらっしゃいますから、誰しも皆んなから好評を受ける、と言う事はなかなか難しいところが御座いますなー。

 

さて、何時ものことながせら、ダラダラと長くなってしまいましたが、皆様の「生き甲斐」は、どの様ですか。

ナニッ! ダラダラと詰まらないことを書かない、と言うのがあなたの「生き甲斐」だってですか。あーそうですか。そうですか。結構な「生き甲斐」で御座いますなー。肖(あやか)りたいものですなー。

しかし、このダラダラ書きは、そう簡単に止めることはできませんよ。小生の「生き甲斐」ですからね。と言うことは全く御座いませんが、ヒマ潰しにはもってこいなのですよ。

因みに、強いて申させて頂けますなら、私は、特に「生き甲斐」と言えるものは持ち合わせませんな。何と無くのその日暮らしで、現在に至っていると言うところですな。

特に、これと言った「生き甲斐」を意識なされない方も、多くいらっしゃられるのではないでしょうか。十人十色で、良いのではないでしょうか。

強いて言えば、特に「生き甲斐」を持たない、と言うのが「生き甲斐」なのさ。なんちゃってね。

ハー、? ? ?  ですか 。

今回は、特に、落ちもなく、終わりに致します。

時節柄、入学試験の最中ですから、オチが無い方が良いでょ。

 

どうもお付き合い下され、有難う御座いました。お疲れ様で御座いました。

またのお越しをお待ち申し上げます。

お後がよろしい様で。