《停念堂閑記》120

《停念堂閑記》120

 

 

「日比憐休独偏記」33

 

 

「責任 嗚呼 無責任!」1

 

 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。

厚く御礼申し上げます。

 

せっかくお越し下さいましたが、ここでの話は、相も変わらぬ、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。

深刻にならないところが、取り得ですよ。

夜、眠れなくなったりしませんからね。

もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。

 

なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。

お互いに、持て余しているヒマを、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ならないのですよ。

しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。

手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。

至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。

と言うことで、張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。

打倒、閑、ひま、ヒマーッ!

A A O!  エイエイ、オー!

ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。

 

  

では、参ります。 

 

さて、本日は、昨今、何時も気に掛かる「責任」と「無責任」と言うことを、ヒマ潰しのネタとしたいと思うのですが。どうでしょう。

 

どうでしょう、なんてイキナリ言われたってね。

それでは、こうしましょう、ああしましょう、なんて気軽にね、やってのけられれば、良いですが、なかなかそうも行かないところがありますよね。

単なるその場の思いつきで、気ままにやろうとすると、すぐに、そんな無責任な、なんて言われてしまうのがオチですからね。大体、そんな無責任な、なんて突っかかってくる方だって、それほど、責任を持って言っているようにも見えなかったりしますから。どっちもどっちかねー。

 

 

そもそも責任とは?   なんて改まって、真面目に問われると、概ねチャランポランな日々を送っている小生にとっては、これはすこぶる煩わしいことですよ。

責任どうのこうのを前提する事柄は、どうも気が重くなる事柄が多いですよね。

 

思い起こせば、子供の頃は、責任なんて言う事は、身の回りにありませんでしたよ。

良かったねー。あの頃は。したい放題。まさに、一方的に自由を謳歌してましたね。

 

責任なんてことが、身近に現れ出したのは、戦後数年経った小学生も終わりの頃でしたかね。

その頃までは、良かったですよ。なんでも、気の向くままにやっていれば良かったですからね。その行為が大人から見てこりゃダメと判断された場合は、ゲンコツかビンタが飛んでくるわけでして、そのゲンコツやビンタが、責任と言う事に関係して理解されていたかと言うと、そんな事は露ほども有りませんでしたなー。

要は、悪さしておこられた、と言う程度で、たいして反省もなく、また、すぐに繰り返す日々でしたよ。

 

今になって、振り返ってみれば、戦後数年経った頃に、小生の育った村にも、自由の風が吹いて来た、という事のようですね。

子供の私らの耳にしばしば自由なる言葉が入ってくるようになったのは、多くは村の青年団の人達からだった気がしますねー。

青年期の人達が、何かにつけて自由なる主張をし出したようですね。

村にはそれまで培われて来たやり方が有りましたから、戦前、戦中はそのやり方が、概ね罷り通っていたわけです。

例えば、子は、親の言うことを、納得いかなくても、聞かなくてはならなかったのですよ。親に限らず年上の人の言う事に逆らってはいけない事になっていたようですよ。

ここに、自由の風が吹いて来たわけで、親の言う事に従いたくない若者は、よくウチのオヤジは封建的で困ったもんだ、とボヤいていましたね。

私の育った村は、ほとんどが農家でしたから、農家の長男は、家督を継いで農家になる。これが至極当たり前のことでした。

しかし、家業の農家を継ぐのが嫌な長男もいたのですよ。けれども、長男は家業を継がなくてはならなかったのですよ。

そんなところに、戦後自由の風が吹いて来たのですわ。農家を継がなくてはならないと思っていた、農家嫌いの長男にとっては、なんと心地の良い風でありましたでしょうか。

さー、親の言う事だけを聞いて、農業をやらなければならないと言う事はねーだぞ。

おらー、都会へ出て、サラリーマンになるだ。てんで、誰か一人が火の手をあげると、村中にオラも、オラもと一気に伝染する事になっただよ。

オラは、東京の大学さ行くだ。と言って、村を飛び出したヤツもいましたなー。今は、何しているかねー。PCのキーを叩いてたりして???

 

農家の仕事は、今の機械化の進んだ時代と違って、厳しかったからね。ほとんどが手作業。田畑を耕したり、重い荷を運ぶ時は、馬を使いましたが、野良仕事は、基本的に手作業でしたね。

とにかく農家は、特に畑作農家は、一年中仕事に追い回されていましたね。

朝の早よから、日が暮れて手元が見えなくなるまで、畑作業、畑作業の連日で、1日が終わると、もー疲れ果ててグッタリと言う日々ですよ。土曜日も、日曜日もあったものでは御座いませんよ。その時々の仕事をしなくてはならない時は、とにかく働かなくてはならないのですよ。

それくらい頑張っても、平年作で精々生活ができる程度の収入にしかならず、もしも、収穫前に台風、水害、干害、冷害など、自然災害に見舞われると、それまでの努力がパーになっちゃう事は、珍しくはないのですよ。

だから、街場のサラリーマンの方が安定しているように見え、羨ましかったのですよ。

 

私ごとで恐縮でございますが、中学3年生の時に、私の通っていた中学校では、年に一度、校内研究発表会と言うようなのがありまして、何でも良いので、好きなテーマを設定して、それなりの研究?をして、発表会に臨まなくてはならないのですよ。良い成績だと、今度は学校代表として、町内の中学校(5校)の研究発表会に派遣されるわけですよ。先生側も、それに気を使わなければ、ならなかったのでしょうね。それで、その時期になると、何にかに取り組むように、指導する必要があったのでしょうね。そんなこんなで、生徒はそれぞれ興味のある事に取り組まなければならないハメに陥るのですよ。

英単語の覚え方に取り組んだ友人が居ましたよ。

犬小屋は、「ケンネル」ね。自動車は、「自動車でオウトモービル」の角を曲がっていた、とかね。帽子は、「風で帽子が飛ばされそうになって、ハットした」、とかね。色々苦心していたようでしたよ。

小生は、「今の農村の子供は、農業をどう思っているか?」と言うテーマを思いついたのでしたね。各クラスへ出かけて、アンケート調査をお願いし、それをまとめたのですよ。

その結果の概略は、アンケート調査をするまでも無く分かりきっていた、仕事がきつい、休みがないと言う事でしたね。その結果、農業をやりたくない。街へ出てサラリーマンになった方が良いと言うのが圧倒的に多かったですね。

そして、どうなれば農業をしても良いか、と言う事については、農家といえども週休制を取り入れて、日曜日を休みにして欲しい。それから、機械化が進めば良い、と言う意見が多かったですね。

まー、早い話が、農業をやりたくない、と言う希望が強かったのですよ。

 

農家の次男以下の男の子は、サラリーマンの道へ歩む人もおりましたが、分家して、なお農業に従事する場合も多かったようですね。

女の子は、サラリーマンに嫁ぐ子も当然いましたが、なお、農家へ嫁ぐ場合が多かったのではないでしょうか。

 

概ねこのような状況のところに、自由の風が吹き込んできたわけで、親の、あるいは、一般的な農村の仕来りから解き放たれたい、いわゆる自由にしたいと言う気風が強くなってきたわけで、自由なる言葉が、若者の間でしきりに飛び交っていたのですね。

しかし、この自由は、時に勝手気まま、したい放題の方向に走る場合もありまして、トラブル発生ともなることが、ままあったようですね。

そのようなおり、学校でも、自由に関わる教育が当然必要とされたのでしょう。

それで、中学生の頃に、学校で、しばしば自由に関わる事について、習う機会があったのでしょうね。

しかし、中学生とは言え、なお、自由がどうの、こうのと、あまりそういった意識はありませんでしたな。もっばら、毎日、何して遊ぼうか、と言う事の方が優先している頃でしたので、あまり記憶していませんが、先生が、自由とは、なんでも勝手気ままにやって良い、と言うことではない。自分のやった事には、責任を持たなくてはならないのだよ、ということを盛んにおっしゃっておられたような記憶は、なんと無くありますね。

多分、この頃に自由と抱き合わせで責任という事に、出っくわしたのでしょうな。

学校では、友達同士で、何か具合の悪いことが発生した時に、お前が勝手にやったのだから、お前の責任だ。お前が責任取れよ。なんてやってたんでしょうね。

しかし、責任なんて漠然としたことを言われたって、どう言うことか、分かろうはずもありませんでしたから、分が悪い時は、差し当たり謝らなくてはならない、と言ったところでしようね。

あるいは、物を壊しちゃった時には、弁償云々といったことを口走っていたと思われますなー。

こんなところで、責任と言う事に出っくわした訳で、その頃は、兎に角、責任云々と言うことなどには、たいして気に留める事もなく、楽しく遊ぶ事に、専念する日々を送っていた訳ですな。

 

当然のこととして、だんだん成長して行くに伴って、否応なしに、責任と言うのが、くっ付いてくる事になったと言う事でしようか。

 

しかし、私なんざー、言うまでもなく、日常的には、チャランポランに、ボーッと生きた来た訳でして、あまり責任と言う事に意識が及ぶ事がない、日常生活を送ってきましたなー。

時々、ヘマをしでかした時に、日頃気にしていなかった責任様が、突如現れたりしましてね。謝れよ、弁償すれよなどと迫られる訳でして。

要するに、自由の代償として、責任を問われる事になる、と言う訳で、中学時代に教わった、先生の顔が浮かぶハメと相成る次第なのですよ。

 

そもそも責任とは、何だ ?  なんて深く考えた事はあまり御座いませんでしたなー。

仕方がないので、世間一般に言われている責任とは、どう言う事か、と思いましてね。早速、PCのキーを叩いて、検索する事になるのですよ。便利な世の中になりましたなー。すぐに、色々な解説が現れましたよ。どれを見ればベターなのか、迷っちゃいますが、結局は、表現の易しい、すぐに、理解し易いものを選択する事になりますなー。

何事によらず、簡単に理解し易い解説は、一応は、気を付けなくてはならない、注意が必要だ、と言うくらいの事には気がつくのですが。

大体、小難しい事柄を、平易に解説すると言うこと自体難しいことなのですよ。きっと。

それを易しく、誰にでも分かるように解説するとなると、時に、ウソっぽいことが、入り込んじゃったりするのですよ。多分ね。だから注意が必要なのですよ。ネットの情報は、色々入り乱れていますからね。特に注意しなくてはなりませんなー。

 

てな事を言いながらも、平易な解説に従って、平易に表現すれば、責任とは、個々が行なった行為に伴う人として当然行うべき任務、すなわち、しなくてはならないこと、と言う事のようですね。

そんな事、いちいち言われなくとも、とっくの昔から知ってらー、と言う事ならば、そんな結構な事は御座いませんな。

しかし、分かっているつもりでいたことでも、分かり易く言えよ、と言われると、ちょっと、マゴつく事があるのですよ。幼い孫に突然フイを突かれたりすると、マゴマゴしちゃう事って、御座いませんか ?

つまらねーダジャレなんぞやってないで、さっさと、前へ進めろ、ですって!

ドッコイ、そうは参りませんよ。ダジャレは、思いついた時が、チャンスですからね。後でなんて思ったりすると、たちまち忘れちゃいますからね。程度なんて、気にする事は御座いませんよ。こっちトラ、初めから座布団なんざー持ってませんから、取られる心配は御座いませんから。ズーズーしくやったが勝ちですから。

あなたね。孫が紅葉のようなお手手を出して、お手手はどうして、お手手っていうの、と聞かれて御覧なさい。

それは、お手手だから、お手手と言うんだよ。てな事で、許してはくれませんよ。ねー、どーして、どーして、おせーて、おせーて、と折りたたんで来ますよ。

そこで、色々と考えなければならないハメに追い込まれるわけですだよ。

アシと言ってはダメだったのかね。と言う事で、アシに問い合わせたら、オレはトーの昔からアシだ、勝手に使うな、と怒られちゃいましてね。それなら、メでは、ミミでは、クチでは、ハナでは、・・・とぜーんぶ問い合わせたところ、全部既得権を主張されて、使えない状況だったのですよ。それで、最後に残ったのが、ただ一つテだったのですだよ。

そんな事で、手は、結局のところ、テに落ち着いただよ。

と孫に言って聞かせる勇気が御座いますか。孫がこんな話を理解できるようになるには、かなりの年期が必要ですだよ。

これが、寄席だったらね。座布団の1枚にでも、ありつけるかも知れませんがね。

 

いい事教えましょうか。こう言う時は、躊躇せず、チコちゃん聞けばいいのですだよ。

よもや、チコちゃん、わかんねー、なんて事はないでしょうな。

そんな時は、すかさず、ボーッと生きてんじゃねーよ!とブッカマシまっせ。ホンマ。

 

ところで、何の話をしていたのでしたっけ。

つまらねー話は、すぐに忘れちゃう常日頃なのですよ。

改めて、思い起こせば、そーそー、責任たらの事でしたなー。無責任を自で行って、申し訳ございません。

と言う事で、ここでは、

 

責任とは、個々が行なった行為に伴う人として当然行うべき任務、すなわち、しなくてはならないこと、

 

と言う程度に理解しておく事にしますよ。

さて、次に、もうちょっと、砕いてみますと、「人として当然行うべき任務」とは、どう言う事かと言いますと、一般的には、二通りの事が言われているようですな。

一つは、現行の法律に照らして、やらなくてはならない事、すなわち、法的に決められたように、やらなくてはならない事ですよ。

したがって、これに違反した場合には、それ相当の罰が加えらる、と言う事で、この罰を受ける事が、すなわち、責任を取る、と言う事になるようですな。

今一つは、法律に違反したので責任をとると言うのではなく、法律と言う文章になっている取り決めがなくとも、人には人として当然やらなくてはならない任務があるのですよ。法律として決められてはいないけれども、法律と同等かそれ以上に、社会的に守らなくてはならないとされている事柄があるのですよ。従来は、これを道徳と表現する場合が多かったようです。

そして、これに反すると、当然の事として、社会的に責任を取らなくてはならない、とされている事があるのですよ。

しかし、こちらは明確に文章とされていないために、やりようによっては、有耶無耶にされる場合があるのですよ。すなわち、責任逃れが行なわれ易いところがあるのですよ。

 

例えば、「桜の見る会」をやった連中がおりまして、この経費を税金から出しよったのですわ。

この事に関して、昨年来ずーっと国会で問題とされて来ているのですよ。

 

桜を見る会」の2019年度開催要点

 

1.主催者 内閣総理大臣 安倍晋三

2.会の目的 「各界において功績、功労のあった方々を招き日頃の労苦を慰

       労するため」と言うもの。

3.会場 新宿御苑

4.期日 4月13日。

5.招待数 約15400人。

6.出席者数 約18200人。

7.予算額 1766万円 (a b c d e f g h i j k l プレジデントオラ イン編集部

     (2019年5月17日)。

8.支出額 5518万7000円 (日本共産党 (2019年11月8日〈国会質問〉)。

  ※  以上のデータは、ウィキペディアの「桜を見る会」の「開催一覧」に

   よる。2020年2月2日に検索、閲覧したものによる。

 

テレビの国会中継などで、野党議員の質問、これに対する総理、政府の答弁をご覧になられた方も多いと思われます。

まず、国民の一人として、知りたいことは、この「桜を見る会」は国事として行なわれたのですから、当然の事として、これが、国会の審議を経て、正当に行われたものなのか、どうかと言う事ですよ。

当然、これに必要な経費は、税金が使われた、と言うことですね。これは間違い無い事実ですね。

とすれば、国の税金を使う場合は、通常は、当該国事の計画が立案され、概算要求でその経費が要求される訳ですね。

それが、国会で審議され、適切と承認された場合に、その経費が予算に計上される事になりますね。

そして、それに従って、予算が執行されて行く訳ですね。

そして、執行されたならば、それがどのように執行されたかが、事実に基づいて、報告される訳ですね。

そして、その年度の決算が行われる事になり、国会の審議を経て、適切に行われた事が承認されれば、この国事は予定通りに正当に実施された、と言う事になり、落着する訳ですね。

 

ところで、上に示したデータで見る限りでは、1~4までは、まーそんなものなのかねー、となるかも知れませんが、5の招待数に関しては、その具体的詳細を知りたくなりますわなー。

 

A. 誰が、どのようにして、招待者を決めたのか。

B. 招待された者は、一体誰なのか。

C. 人数は、どうして約15400人だったのか。

D. 経費はどれほどかかったのか。

 

Aについては、招待客の選定は各府省庁からの意見を踏まえて内閣官房内閣府が最終的にとりまとめる、案内状の発送は内閣府が一括し、必ず招待客一人ひとりに宛てて送付を行う。とされているようですな。

要するに、招待客の選定とそれに対する招待状の発送は、内閣官房内閣府が行う、と言う事は、招待客の選定とそれに対する招待状の発送については、内閣官房内閣府の責任のもとに行われた、と言う事です。これは事実の確認です。

 

(実態として、与党国会議員には、推薦枠が割り振られている。と言う事が明らかになっているようですな。)

 

Bについては、野党議員が、招待客の名簿の提出を求めたのに対して、政府の返答は、既に廃棄済みであるので、具体的には示せない。と言う答弁のようですな。

これに対して、野党議員は、速やかに、招待者の名簿を明らにするべく、調査の実施を政府に要求しましたな。

これに対する安倍総理の答弁は、調査をするつもりは無い。すなわち、誰を招待したかは、明らかにするつもりは無い、と言う答弁でしたよ。

 

(実態としては、自民党所属の京都府議員と滋賀県議員全員に招待状が来ている。と言う事が明らかのようですな。すなわち、全体像は明らかでは無いが、一部分は明らかとなっている、と言う事ですな。これは事実の確認です。)

 

Cについては、招待数約15400人のところ出席者数約18200人と言う数値が出て来ています。この数値に従えば、招待数より約2800人多く出席している、と言う事になります。

そもそも招待客数が、なぜ15400人であったのか、その数的決定の根拠と決定時が明白ではありません。

この数値については、取り敢えずは、下記の可能性が考えられます。

 

a 概算要求時に示されたもの。

b 予算成立時に示されたもの。

c 予算執行時、上記 Aの作業時に示されたもの。

d その他、どこかの時点で示されたもの。

 

具体的には、わたくし的には、全く分かっておりません。

強いて推測すれば、事の性格からすれば、Cの時点、すなわち、招待者が具体的に取り決められた時の人数か、とは思われるのですが、不安定な要素がなお多く存在してますね。

例えば、最終的に、内閣官房内閣府で招待客が決定されたのでしょう。

そこで、決定した招待客に、招待状を発送したのでしょう。それが、どのような形式のものであったのか、残念ながら、小生は確認しておりません。

例えば、何か会合を催す場合には、主催者側は、実際の出席者数を把握する必要があるでしょうから、通常は、郵便や電話やメール等で、出欠の有無を問い合わせますね。招待状を送りっぱなし、と言う事はないでしょう。咲いた桜の花を何輪用意しなくてはからないかは、ともかくとして、運営に関わる要員や飲食物の用意などをしなくてはなりませんから、実際の出席者数を把握しておかなければなりませんなー。

ですから、このような作業時に、主催者側は当然出席者数を把握してますね。約15400人と言うのは、あるいは、この時に判明した人数かと、推察できますね。

 

ところがですよ。実際の出席者数が、それよりも約2800人も多い、と言う事は、こりゃ一体どうした事だ、と言う事になるのですよ。

花見の当日、会場で受付があって、そこで招待状が確認されて中に通される事になるのが通常行われている事ですね。

招待状を持たずに、花見の当日、勝手に会場に紛れ込んで、桜を見たのかどうかは知りませんが、税金で用意されたものを、飲み食いして帰ってしまった、とでも言う事態なのでしょうかね。

それにしても、出席した人数が、約18200人と把握されているのだから、約2800人が紛れ込んだにしても、出席した痕跡を残していた事になるのですから、訳の分からない事態ですなー。

 

次に、Dの経費については、1766万円が予算化されたようですね。当然、国会の審議を経て、この金額の妥当性が承認されたのでしょう。この審議の時に、この是非を巡る意見は出なかったのでしょうね。野党も認めちゃったのかねー。ちゃんと、審議されたのかねー。とにかく、「桜を見る会」に関わる予算がついた事は、事実ですね。

 

とにかく、ここまでは、国会議員の先生達が寄ってたかって、「桜を見る会」の意義を認め、その経費を税金で賄うことを決定した、と言う事実は動かない、と言うことですよ。

ところが、これがですよ。ついた予算が1766万円のところ、実際には、5518万7000円を使っちゃった、と言うのですよ。当然のこととして、これは一体ナンジャと言う事になるのですだよ。

 

例えばですよ。小生ごとで甚だ恐縮でございますが、実はこれまでに、とある計画を実施したいので、その経費を国から、すなわち税金から使わせてもらえないものか、と申請した経験が何度か御座います。花見は申請しませんでしたよ。蛇足ながら。

所定の審査が御座いまして、何とか審査をパスして、概算要求に加えてもらい、国会の審議を経て、予算が付いた事があります。4月になりまして、予算の執行となりますが、小生に対する予算額は、小生の勤務する機関に振り込まれてきます。これが6月頃でした。

そこで、小生は申請した計画に従って、必要な経費を使う運びとなるのですが、まずは、その都度の使用目的書を所属する機関の会計課に提出します。会計課では、計画に違わぬと判断すれば、使用を許可してくれます。たとえは、物品を必要とする場合は、その品の購入を、会計課に申し込みます。それを受けた会計課は、その品を注文し、取り寄せてくれます。支払いは、会計課が行なってくれます。調査のための旅費も、その具体的計画を会計課へ持っていくと、国の定め従って、調査旅費を支給してくれます。

これを繰り返して、年度末までに、予算額を使い切りまして、そして、指定された期日までに、申請した計画に従って実施した成果についての報告書を作成して、提出する事になります。

この過程において、国から支給されたお金をどの様に使ったかは、1円に至るまで、事実が証明される様に、キッチリと書類で確認できる様な仕組みとなっておりまして、いわゆる丼勘定など一切できるものでは御座いません。

計画を実施していく過程で、付いた予算より多額のお金がかかってしまったので、不足分を追加で支給して下さいと言っても、一切聞き入れられるものでは御座いません。不足分は、自己負担しなさい、と言う事です。

もしも、使い切らず、残金が生じた場合には、国庫へ返還する事になっています。

 

いいですか。

これは一例ですが、国民から徴収された税金を使わせてもらう場合は、それはそれはキッチリした方式に則って、正当に使わせて貰う仕組みがとられています。

 

いいですか。これが総理大臣安倍晋三の主催で、「桜を見る会」を行いたい。ついては、これだけの経費が必要とされる。税金から負担して欲しい、と概算要求がなされ、これが国会の審議を経て1766万円の予算が付けられた。そして、これが実施されたが、実際には5518万7000円掛かっちゃった。これを税金で負担した。と言うのですよ。

 

どう思いますか。

幾ら国のやる事に関心が無い、と豪語しておられるお方々でも、ナンジャこれと思うでしょ。

 

そして、これが問題化されて、どの様に実施されたのかを国会の場で、野党議員から問い質された安倍総理の返答は、言ってしまえば、証拠となる書類等は無い。招待客の名簿などは既に廃棄しちゃった。と言うのですよ。

これに対して、野党議員は、再度調査して欲しい、と食い下がったところ、安倍総理は、調査はしない、とキッパリ断言したのですよ。

これで、この問題は、終わりにしょうと言うのですよ。

桜を見る会」の目的は、「各界において功績、功労のあった方々を招き日頃の労苦を慰労するため」であるとされておりますなー。ところが、これに招待されている人々には、この目的に不適合な人が含まれている事が明らかにされています。特に、自民党の地方議員が多数招待されている実態が明らかとなっていて、いわば与党自民党選挙対策と見られる傾向が明白に伺われると言うことの様です。

政府、安倍総理は、その実態を調査する意思のないことを言明しています。

 

話を本筋に戻しますと、「桜を見る会」に関する「責任」とは、一体何なのでしょう。

 

目的に反する会の実施は、国会で取り決めた事に違反しているのではないのか。

予算を超過すること3倍もの経費を国税から使った事は、法律に違反してはいないのか。

まずは、この様な極めて素朴な疑問が湧きますねー。

国家予算とその執行に明らかに、疑わしい点が見られ、この様だとすると、これは普通には犯罪に属する事ですよね。世俗的によく言われる公金の使い込み、と言う事に相当しませんか。

この点について、司法は、チコちゃん流に表現すれば、ボーッと眺めていて良いのですかね。

籠池一件、加計学園一件に見られる性格に通ずるところが、ありはしませんかねー。

 

と言う事で、世に問われる責任とは、果たしてどの様な事なのか。

法律に照らして、不正があれば、処罰を受けなければならなりません。

その行為が、人の道に外れていれば、要するに道徳的に不適切なものと判明した場合には、その当人のとるべき任務があるのではないのか。

と言ったあたりが、具体的な責任と言う事になるのではないでしょうか。

 

と言うことで、例えば「桜を見る会」を実施した人達の責任は、どうあるべきなのでしょうか。

籠池一件、加計学園一件と同じ様に、最も責任のある位置にある人が、何の責任も取らず、有耶無耶の幕引きとしてしまうのでしょうかね。

最も責任のある位置については、その様な位置についている面々を選出したのは、申すまでもなく、国民有権者ですよね。結局のところ、国民有権者の責任と言うところに、落ち着くと言うことの様ですね。

 

でも、この様な状況で、もし国政選挙が行われたとしても、またぞろ改選以前の面々が、選出されて、国会議員代議士先生となる状況に変わりがないでしょうから、どうしたものでしょうか。と半ボケのジジイが、ぼやくのですだよ。

 

少々グチが長引いてしまいました。

中途半端感が残ってしまいますが、ここらで一旦休止といたします。

わかりきったことを例のごとくクドクドと繰り返すばかりで、恐縮極まり御座いませんが、ご海容の程、お願い申し上げます。

 

どうも、お疲れ様でございました。

また、お越し頂き、一緒にヒマ潰しに励みましょう。

お後がよろしい様で。