《停念堂閑記》112

《停念堂閑記》112


「停念堂寄席」65
 

「何考えて生きてるの ?」4
 

本日も、「停念堂閑記」に、ようこそお越し下さいました。
厚く御礼申し上げます。
遠路はるばるかどうかは、存じませんが、本当に、よくいらっしゃいましたね。
遠路はるばるとは申せ、よもや「停念堂閑記」に徒歩でやって来られる御方は、おられないでしょうな。そんな御方がいらっしゃいましたら、是非是非お会いしたいもので御座いますが。
とにかく、徒歩で来ようが、泳いで来ようが、はたまた車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、何であろうと構いませんが、要するに、いらして頂ければ、大歓迎で御座いますよ。
もっとも、ロケットで来られますとね、駐ロケット場など持ち合わせが御座いませんので、一つご勘弁のほどを。せいぜい、自転車ででも、お願いできれば、幸甚で御座います。
ところで、本当のところは、徒歩でも、ジョギングでも、マラソンでも、泳いでも、自転車でも、車でも、電車でも、新幹線でも、飛行機でも、ロケットでも、はたまたミサイルであろうと、実は、来ることが出来ないのですよ。
あなただけに、こっそりとお教えしますね。たいして、難しくは御座いませんよ。ただね、必要欠くべからざるものがあるのですよ。
それは、パソコンかスマホなのですよ。それでね最近の作は、Googleのサイトから、「otakatsuyaのブログ」を検索すれば、《停念堂閑記》に辿りつけますから。また、以前の作は、yahooのサイトで検索して頂ければれば、辿りつけます。これだけでいいのですよ。
一般の交通手段では、永久に辿り着けませんので、どうぞ、ご注意下さいませ。蛇足ながら。
辿り着いてくれさえすれば、大歓迎で御座いますよ。
とは申せ、大歓迎と言いましても、高価な美味しい料理でおもてなしをするわけでも、温泉に入って頂いて、とりあえず冷えたビールをグイーッとやって頂くわけでも、肩をお揉みするわけでも、お好みのスイーツをお楽しみ頂くわけでも、御座いません。
ついでに、お友達と連れ立って、ゴルフにご招待する訳でも御座いません。
粗茶の一杯すら出ませんよ。炉端焼きにだって、行くわけでは御座いませ。ポイントだって付きませんから。
このような点は、まー、一言で申しますと、ケチですわ。いや、ドがついて、ドケチと言うべきですなー。
しかし、公金や裏金を使って、どうのこうのと言う事情は、一切御座いませんので、この点は公明正大で御座いますので、どうぞご安心下さいませ。
 
強いて、幾分カッコ付けて申し上げますと、心の問題とでも言いましょうかね。
おヒマなお方、心を込めて、大歓迎で御座います、と言う次第なのですよ。
まだ明けやらずの暗い内から、パッチリと目が覚めてしまいまして、サー今日一日、どのように過ごすか。と言う難題の下に日々をお過ごしの方々も多々いらっしゃられるのではないでしょうか。
これをしなければ、と言う特別なすべき事も無く、何処へ顔を出しても、たいして歓迎されるわけでもなく、しかし、なんとか今日一日を過ごさなくてはならない、と言う御事情のお方、このような同朋の御方々を心より大歓迎するのが、「停念堂閑記」なのですよ。
 
話は、毎度の代わり映えのしない、アホくさい、バカバカしい、クダラないと言う三拍子を兼ね備えた、行き当たりバッタリのアホくさい、バカバカしい、クダラない話で御座います。深刻にならないところが、取り得ですよ。
夜、眠れなくなったりしませんからね。
もー、すぐに忘れちゃっても、なんら問題は御座いませんよ。
 
なんちゅったって、目的がヒマ潰しですからね。
お互いに、持て余しているヒマを、適当に、好い加減に、なんとか、あの手、この手で潰さなくては、ダメなのですよ。大して関係のない余計なことを交えたりしましてね。
しかしですね。これは、これで、ケッコウ手間隙かかるのですよ。
手間隙かからなかったら、ヒマ潰しにならないだろうって、ですか。
至極、ご尤もなご意見で御座います。同感、同感で御座いますよ。
張り切って、手間隙を惜しまず、たっぷり手間隙をかけて、連日のヒマと言う強敵に挑むことに致しましょう。
打倒、閑、ひま、ヒマーッ!
A A O!  エイエイ、オー!
ヒマ潰しとは、申せ、些か次元の低い、掛け声ですなー。
 
  
では、参ります。 
それでは、そろそろ本題に入らせて頂くことに致します。

 

さて、本日は、「何考えて生きてるの ?」と言うことをテーマとして、ヒマ潰しのそれはそれは下らない、取って置きの無駄話をしたいと、思うのですよ。

ところで、何考えて生きていようと、余計なお世話と言うものでしような。
他人に、とやかく言われる筋合いのものでは、御座いませんよ。
しかし、ですよ。ここは、ヒマ潰しの場ですからね。これをネタに、色々と、そのー、ヒマ潰しをね。何とかしようと言う魂胆なのですよ。
本日は、「何考えて生きてるの ?」の 4 ですよ。
と言うことは、当然、1 と2と3があったと言う事ですよ。
「何考えて生きてるの ?」1 では、人はですね。大体は、基本的には、衣食住に関わる事について考えていて、そして、長生きをしたいと、日々考えて、生きているようだ、という指摘をね。してみたのですよ。
当然、年齢によって、また環境によって、関心事は異なりますがね。
成人すると、概ね、衣食住絡みのことを考える機会が多いのではないのかねー。
そして、年を重ねてくると、多くは長生き云々、と言うことになるのではないのですかねー。
続いて、「何考えて生きてるの ?」2 ではですね。引き続き、衣食住の内の、食について、取るに足らない無駄話で、ヒマ潰しをしたのですよ。
次に、前回の「何考えて生きてるの ?」3では、衣食住の衣、すなわち着るものについての無駄話をしたのだけれど、これが例の如くダラダラとやって、句切れの良い週末に届かなかったので、問題を次回へと言うことになって、今回の「何考えて生きてるの ?」4と相成った次第ですだよ。

よって、「何考えて生きてるの ?」3では、取り留めもなく衣服の起源に関わる話を取り上げたので、「何考えて生きてるの ?」4では、その続きと言うわけですだ。

衣服の起源は、とにかく、昔々の大昔のこと故に、はっきりとしたことは、なんとも分かり兼ねますよ。
多分、防寒、保温の必要から、動物の皮革を利用するようになったのでは無いのか。その時期は当然はっきりとは判らないのだけれど、7万5千年程以前に、スマトラ島のトバ山が大噴火して、その影響で地球全体が低温化してしまい、これに対処して、人類が衣服を用いることになった、あるいは持ちいる事が普及したのでは無いか、と言うような事が推測される、と言う話をしまして。
その他に、人間の羞恥心から、そもそも衣服を用いることになったのでは無いか、と考える人もいるが、その辺はどうかなー。なんて言ったところで、次回へ続く、と相成ったと言う次第ですわ。

今回は、これに続くところから始めますよ。

ところで、人類が衣服をまとっている証拠がないものですかねー。
エジプト時代の壁画には、多分衣服をつけた人が描かれていると思うのですが、残念ながら、小生は、エジプトの壁画に関わる素養を持ち合わせませぬので、エジプトはアカンのですわ。
と言うことで、手頃な話を探すハメと相成るわけですわ。

さてさて、衣服 ? をまとった絵では、なんと言っても、アダムとイブのエデンの園で、禁断のリンゴを齧っている絵でしょうかねー ?
ここで問題となるのは、着ているとは言わないのでしょうなー。付けているのは、あの葉っぱですよ。
イチジクの葉とか言われてますよ。
食べちゃったのは、リンゴなのに、付けているのは、イチジクの葉っぱなのですよ。
食べたのもイチジクの実にすれば、良かったのにね。調達に手間かからなかっただろうにね。

または、リンゴの葉っぱを使えばね。
リンゴの葉っぱは、ダメか。大体小さすぎるか。
小さいのなら、縫い合わせればね。何とかなりそーだけどね。
そこには、色々と事情というものがあったのだよ。
実は、イブは、裁縫が苦手だったとかさ。

そー言う問題か ?

イブの使用している葉っぱは、一枚物にしている絵もあるようだけれど、縫い合わせたものもあるとか。エプロン風に。
こんなことまで、調べている人がいるのだね。相当なヒマ人だね。きっと。
イチジクの葉っぱは、それなりの意味があるとか。色々事情があったらしいですよ。
便利な世の中です。ネットで調べてみよー。色々解説されてますよ。

待てよ。ここまで引っ張ってから、甚だ恐縮ではありますが、そもそも、アダムとイブの使用したイチジクの葉っぱって、ありゃー衣服か ?
お客さん。どー思います。

エッ! 未だイチジクの葉っぱを使ったことないって。
ごもっとも。そりゃーそーだよね。大体たよんないものなー。風吹いて来たらどーなる。一大事だぞ。
と言うことで、アダムとイブは、どーやって、イチジクの葉っぱを付けていたのだろうと、疑問を抱いた方もおられたようですなー。そーしたら、それについて、アレコレ詮索している向きも御座いますようで。ネットでは。
世の中は広いですなー。相当ヒマな方がおられるようで。小生よりも、遥かにお暇なようですなー。参ったわ。ホント。


ところで、例えば、
眼帯は衣服か ?
マスクは衣服か ?
てなことはねーな。
となれば、イチジクの葉っぱは、どーなる ?
衣服とすれば、パリコレでやるかね。
いろんな葉っぱのさ。
でかい蓮の葉っぱや、蕗の葉っぱは1枚物で、安全だろうが、四つ葉のクローバーはどうなる。幸運を呼ぶ四葉のクローバーは ?
複数枚縫い合わせればいーか。パッチワーク風にね。しかし、手間かかるな。

パリコレだよ。手間暇惜むかよ。
けれど、四葉のクローバーは、ちょー少ねーよ。見つけるのが大変だよ。

だからさ、だからパリコレが一層張り切るのだよ。
お客さん。この手のファッションショー、お好きなのー ? パリまで出かけます。

余計なお世話!

失礼いたしました。

まだまだ、引っ張って、ヒマ潰ししなくてはね。
お客様、お好きなようだから。

と言うのは、アダムとトイブは、何のために、イチジクの葉っぱを付けたのか。と言う問題があるのですよ。

これは、衣服の起源には、直接関わることではないのでしょうがね。
人間は、何故衣服を着用するようになったのか、と言うことに関係しましてね。
それは、防寒、保温のために、着用するようになったのであろうと、推測するのが一般的でしょうが、その他にも、色々とその理由を追求する向きがあるのですよ。
現在では、衣服の役割は、まずは、防寒、保温など適切な体温保持を上げる人は、多分最も多いのだと想像しますよ。
しかし、衣服の役割は、例えば、害虫に刺されない役割とか、物にぶつかったり、接触したりする場合の、防御に役立つとか、あるいは、着飾って、カッコ良く見せたいと言った、ファッション性とか、あるいは、人には羞恥心があるから、他人に見せたくない部分を隠す役割など、色々と役割があるのですだよ。
ここで、翻って、アダムとイブのイチヂクの葉っぱの場合は、なんだったのだろうか、と言う疑問を抱く向きがあるのですよ。
防寒、保温のためなら、イチジクの葉っぱはどうですかね。
そんなの役立つかー、てなもんですだよね。
そいじゃー、衝撃の防御のためか?
まさかねー。
そいじゃー、ファションのためか?
イチジクの葉っぱ、カッコいー、と言うことになるのかね。これは、個体差があるから、中には、カッコいー、となる方がいても、ムキになって、否定はしませんよ。
しかし、カッコいー、綺麗だ、と言う事が重要なポイントだとすると、何もイチジクの葉っぱでなくてはならないと言うことはないよな。
好みによるけれど、葉っぱ系よりは、花系の方が、いーのではないかい。
日本人好みだったら、やっぱり桜と言うことになるなかなー。
しかし、桜の花は寿命が短いな。せいぜい1週間てとこだな。散っちゃったら、細っこい枝だけになっちゃうよ。こーなっては、感動的ではねーな。どーみても。

こーなると、アダムとイブの場合は、ファションとは関係が薄いなー。
となると、羞恥心のなせる技か?
羞恥心は人間特有のものだよな。他の動物は、あまり恥ずかしいと言う感情は持っていそーもねーよな。
羞恥心の発生が、猿と人間を分けることになったのかなー。どーかなー。
しかし、恥ずかしーと言うことに拘るのは、人間だけだよ。
恥ずかしー、てんで、パンツ履いてるアリンコを見たことねーもんな。
バーカ! アリンコは、恥ずかしーの前に、合うパンツがねーんだよ。白米の粒に、文字や絵を描く人はいるが、アリンコのパンツ作った人は、見たことねーよ。
そんじゃー、作ってみれば。ギネスものだよ。
物好きな方が、アリンコのパンツ アリますかーって、買いに来るよ。
そしたら、すかさず、アリます。アリます。と売りつける事が出来るよ。

この駄洒落のために、わざわさアリンコを出したのか。ヒマだね。実に。

アダムとイブの場合は、どうも羞恥心から、イチジクの葉っぱを用いたのではなさそうですなー。
じゃー、何だ。
この点についても、解説している人がいるのですよ。
どうやら、神様に対して、失礼にあたるので、イチジクの葉っぱで隠した、と言うことらしいですよ。
これは、キリスト教の聖書に出てくる話ですから、キリスト教文化では、そのようになっているらしいですな。詳しくは、存じませんが。
私ゃー、キリスト教についての素養は全然ないので、詳しいことは、全く知りませんが、聖書における神とは、どんなんでしょーな。
ザビエルによって、日本にキリスト教が持ち込まれた時には、デウスを信せよ、と言うような教えであったとか、聞いた事がありますな。
デウスは、日本人にとって、理解が難しい存在であったようで、仏教の僧侶から、デウス、すなわち神について質問された時に、宣教師は、デウスは形を持たない、色もない、臭いもない、と説明したら、仏教の僧は、そんなものは、この世に存在しない、と言ったと言うことですだよ。
そしたら、宣教師は、あなたらは、風と言うものがあるのを知っているか、と来たと言うのですだよ。
僧侶は、風の存在は知っている、と答えると、形も色も臭いも無いものだって、存在するではないか。と反論したと言う。
そしたら、僧侶は、それは “ 無 か ” と、言いだしたとか。 分からんような、分からんような禅問答である。

宣教師は、デウス、すなわちキリスト教の神とは、全てを支配する宇宙の原理だ、と言うような説明をしたような話が伝わってますが、日本人には、分かり難かったでしょうな。
その点、日本の神々は、自然神は、天の神、地の神、山の神、海の神などに代表されるように、形も色も臭いもとやかく論ぜず、人間の及ばない力を持った絶大の存在のように諭されて来たようですが、「古事記」や「日本書紀」に現れる神々は、擬人化されていますなー。
そして、実在の人物を神として崇める慣習も生まれて、日本の神様は、実に八百万の神々となっていますな。
キリスト教の神はデウスのみ。
対して、日本の神は、八百万。数では、勝ってるなー。
日本の神々を一まとめにして、同じ扱いをして良いのか、否かと言う問題があると思いますが、一般的にいわゆる氏神様の場合は、それを祀る祭礼が行われますなー。春祭とか夏祭とか、なかなか賑やかに行われていますなー。
お祭りの時には、平生は神社に祀られている神様を、神輿にお乗り頂いて、所定のコースをご案内する仕方が一般的に行われていますなー。
例えば、浅草の三社祭などの神輿渡御は、盛大に行われ、有名ですなー。
この場合、神輿の担ぎ手は、実にフンドシ姿の超威勢の良い男性が一般的ですな。
神社によって、女性の担ぎ手もなかなか華やかに行われているところもございますな。
山梨県山中湖村には、なんと、妊婦さんが神輿を担ぐ神社様があるのですだよ。安産祈願のためですだよ。
神々しい、元気な赤ちゃんが生まれるそうですだよ。
女性の場合はそれなりの出で立ちが取られているようですが、男性の場合は、フンドシ1本のユニホーム姿が多いようですな。
この場合、アダムとイブの場合は、イチジクの葉っぱでしたが、日本の神輿の担ぎ手の場合は、フンドシですわ。
フンドシは分類上、衣類となるかと思われますが、しかし、フンドシ1本で人前でパホーマンスするのは、失礼に当たらないのか、否かと言うことですだよ。
特に、神様の面前で大勢の男たちが、フンドシ1本なのですよ。神様に失礼ではないのかねー。
アダムとイブは、神に対して失礼なので、イチジクの葉っぱを着用? したとのことですが。
日本の場合は、どうなのでしょうね。
フンドシが衣類となると、衣服をちゃんと着用しているではないか。フンドシは神輿を担ぐ時の正装だよ。となると、問題ないか。

しかし、一般的には、フンドシ1本で人前に出るのはねー。
どっこい、神輿の担ぎ手の場合は、大丈夫なのですだよ。ちゃんと、打つ手は打ってあるだよ。
これが、日本文化のバランスのよく取れている特質なのですだよ。
すなわちでんなー。神社様の祭礼に当たっては、必ず神前に、お神酒と塩をお供えする決まりなのですよ。
お神酒と塩で、まずはお清めして、ちゃんとお祓い済みなのですよ。
よく出来た文化でしょー。
アダムとイブは、ただ、イチジクの葉っぱで、隠しただけ。何故イチジクなのかについては、意味があるようですが。

と言う訳で、常に日頃から、神様には、お神酒と塩、加えて陸海の産物をお供えして、神様をお祀り申し上げているのですよ。

神道キリスト教文化の違いは、実にこの辺りにあるのではないでしょうか!
神と言う存在に対する民族性の違いですかな。

どうだか ? ? ?

と言うことで、ハッと気がつくと、ダラダラと取り留めのない無駄話。結構、長ったらしくなってしまいましたな。ここらで、ちょっと一休み、と言うことに致しますか。
とにかく、行き当たりばったりの話ですから、目的と結論は、当然のこととして、一致する訳もございませんよ。
そもそもの目的は、言わずと知れた、気ままなヒマ潰しでこざんす。
強いて、今回の結論めいたことを言えば、人間が何故に衣服を身につけるのか、と言う点について、羞恥心から他人に見られたくないと感じている部分を隠したいと言う欲求から、衣服を着用することになったのではないか、と言う見解があるようですが、この見解は、衣服の起源には関わりが薄く、直接の理由とはならないだろう、ということでしょうかね。言わずもがな。蛇足ながら。

ヒマが続くようでしたら、この続きを次回にやらせて頂く予定です。ゴールが見えねーよー。

どうもお疲れ様で御座いました。
懲りずに、またどうぞ。


お後がよろしいようで